のこそ、正《まさ》しく月丸が死骸《なきがら》なれば、「さては彼の虎めに喰《く》はれしか、今一足早かりせば、阿容々々《おめおめ》他《かれ》は殺さじものを」ト、主人《あるじ》は悶蹈《あしずり》して悔《くや》めども、さて詮術《せんすべ》もあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を賺《す》かして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の中《うち》、その日よりして物狂はしく。旦暮《あけくれ》小屋にのみ入りて、与ふる食物《かて》も果敢々々敷《はかばかしく》は喰《くら》はず。怪しき声して啼《なき》狂ひ、門《かど》を守ることだにせざれば、物の用にも立《たた》ぬなれど、主人は事の由来《おこり》を知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に窶《やつ》るるのみにて、今は肉落ち骨|秀《ひい》で、鼻頭《はなかしら》全く乾《かわ》きて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、俄《にわ》かに産の気|萌《きざ》しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、妙《たえ》なる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸《こがねまる》と呼びぬ。
さなきだに病《やみ》疲れし上に、嬰児《みどりご》を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に弛《ゆる》み出でて、重き枕いよいよ上らず、明日《あす》をも知れぬ命となりしが。臨終《いまわ》の際《きわ》に、兼てより懇意《こころやすく》せし、裏の牧場《まきば》に飼はれたる、牡丹《ぼたん》といふ牝牛《めうし》をば、わが枕|辺《べ》に乞《こ》ひよせ。苦しき息を喘《ほっ》ト吻《つ》き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き妾《わらわ》が容体《ありさま》、とても在命《ながらえ》る身にしあらねば、臨終の際にただ一|事《こと》、阿姐《あねご》に頼み置きたき件《こと》あり。妾が雄《おっと》月丸ぬしは、いぬる日猛虎|金眸《きんぼう》がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。彼《かの》時妾|目前《まのあた》り、雄が横死《おうし》を見ながらに、これを救《たす》けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の雌《つま》たる身の、たとひその身は亡《ほろ》ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど
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