ら君臣の關係と云ふものが出て來た。今お話したやうに莊園は誰が持つて居るかと云ふと京都の公卿、豪族が持つて居つたのでありますが、京都の公卿も段々飯が食へなくなり豪族も段々狹い京都に居るよりは地方に出て、自分の持つて居る土地へ行つて自由に生活したいと云ふので地方へ分れて、それが後には源氏となり平家となりました。莊園が餘り激しいので後三條天皇と云ふ天子樣が、莊園は色々の弊害の本で、朝廷の持つて居る土地を莊園にしてしまつて、さうして朝廷へ出すべき租税が減ると云ふことは不法であるから、莊園は悉く沒却してしまふと云ふことをお考へになつた。但し莊園も朝廷から立派な認可状のあるものは之を許すが、認可状のないものは取上げると云ふことになつた。所が認可状なんてものは有る者は百人か二百人しかない。皆盲判を捺してどん/″\勝手に莊園にしてしまつたのですから、莊園の認可状を朝廷から貰つた者は昔は知らず今はないのです。そこで關東八州、今の東京を中心とした八箇國、此邊の莊園の者が非常に騷ぎ出した。皆さんが歴史や芝居で御承知の畠山莊司重忠と云ふ人がありますが、莊司と云ふのは其邊の莊園を司つて居る人なのです。即ち莊園の
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