掛でやることは西洋から學んだが、製鐵の事業は吾々は既に三四百年以前からやつて居つた。日本の清盛時代に支那に宋と云ふ朝廷があつた。歐陽修と云ふのは其時代の學者で、日本邊りでは歐陽修の文章を讀んで感服する學者が多い。其歐陽修が日本刀と云ふ歌を作つて居る。日本刀と云ふものは璞を切るべく龍を斬るべし精悍無比天下斯の如き名刀なしと云ふ歌を歌つて居る。是は誰が打つたかと言ふと、堺邊りの工人が打つたものである。小仕掛に砂鐵からそれだけのものを造り得る者が今日あれだけの製鐵所を拵へても少しも不思議はない。唯仕掛が大きく機械を學んだと云ふに過ぎない。それを動かす頭と手は吾々にあつたのです。又、吾々がポルトガルやオランダと貿易を始めた時は色々珍しいものが來る中に天鵞絨と云ふものがあつた。此天鵞絨と云ふものは如何にも軟かくて立派なものであるが、どうかして此製法を學びたいと思ふが、ポルトガル人は教へない。所が堺の商人が何とかして習ひたいと思ふが教へない、困つて居る所に、或年來に天鵞絨をほごして見ると、其隅の方に針金が一本入つて居つた。それで針金を中心にして織るなと云ふことを考へて直ぐ天鵞絨を拵へた。是程精工業に巧妙な者が今日コツトンに於て天下有數の地位を得たからと云つて少しも不思議はない。唯マンチエスターから機械を學んだと云ふだけである。之を運轉する機能と頭と指先は吾々は既にもう持つて居つた。工業に付てさへも斯の如しであります。
 近頃自由主義が宜しくない、議會政治が宜しくない、是は皆西洋の制度を學んだものだと云ふやうなことを言ひますが、議會制度を西洋から學んだと云ふことは、形は確にさうであります。併しながら我國はそれを生むべき運命を持つて居る。お話申した如く、封建時代に於ては、武士が刀を以て百姓を抑へて居つたのですが、天下泰平となつては刀では利かないで、利くのは黄金の力のみとなつた。江戸の士が非常に威張つて居つたが、年々歳々金に困つて町人から金を借りるのですが、盆暮に取るべき米の切手を抵當として町人から金を借りると云ふやうなことで、段々士族は黄金の前に頭を下げるやうになつて、終ひには江戸の町人は大名の如く挾箱を擔がして從者を連れて數十人列を作つて江戸を歩くやうになりました。唯大名が歩くときは挾箱に槍を立てゝ歩くが、町人の悲しさには槍を立てることは出來ないから六尺棒を持つて歩いた。江戸の士
前へ 次へ
全21ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
竹越 与三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング