ら君臣の關係と云ふものが出て來た。今お話したやうに莊園は誰が持つて居るかと云ふと京都の公卿、豪族が持つて居つたのでありますが、京都の公卿も段々飯が食へなくなり豪族も段々狹い京都に居るよりは地方に出て、自分の持つて居る土地へ行つて自由に生活したいと云ふので地方へ分れて、それが後には源氏となり平家となりました。莊園が餘り激しいので後三條天皇と云ふ天子樣が、莊園は色々の弊害の本で、朝廷の持つて居る土地を莊園にしてしまつて、さうして朝廷へ出すべき租税が減ると云ふことは不法であるから、莊園は悉く沒却してしまふと云ふことをお考へになつた。但し莊園も朝廷から立派な認可状のあるものは之を許すが、認可状のないものは取上げると云ふことになつた。所が認可状なんてものは有る者は百人か二百人しかない。皆盲判を捺してどん/″\勝手に莊園にしてしまつたのですから、莊園の認可状を朝廷から貰つた者は昔は知らず今はないのです。そこで關東八州、今の東京を中心とした八箇國、此邊の莊園の者が非常に騷ぎ出した。皆さんが歴史や芝居で御承知の畠山莊司重忠と云ふ人がありますが、莊司と云ふのは其邊の莊園を司つて居る人なのです。即ち莊園のマネージヤーです。それが皆武士なのです。後三條天皇が莊園を取上げると云ふなら是は何か方法を考へなければならぬ。今源義家、頼家と云ふのが東北を征伐して前九年、後三年を經て歸つて來て、赫々たる大功を奏して武名天下に轟いて居る。丁度我國で滿洲事變を終へて歸つて來た軍隊のやうなものです。其源義家に吾々の莊園を獻上してしまつて是は源家のものであると云ふことにしたら、後三條天皇も武力に憚つてお取上げになるまいと云ふことを考へ出した。其頃は新聞もなければ政治家も居なかつたが此關八州の田舍の武士が中々巧いことを考へたのです。それで義家に吾々關八州の者は悉く莊園を源氏に獻上したいから受けて呉れと言つたら、義家は宜しいと言つて取つてしまつた。是に於て關東八州は一朝にして源氏のものとなつてしまひ、莊園は朝廷に取上げることは其武力に對して出來ないので其儘になつてしまつた。そこで今お話した通り莊園は初めは京都の公卿や豪族が遙に二三百里隔てゝ支配して居つたのですが、段々子供が多くなると其土地へ行つて土着すると云ふやうなことから莊園が武力の中心となつて來た。終ひには莊園と莊園と戰ふと云ふことになるから兵力を養はなけ
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