かった。いや、語れなかった。
「君の名は、なんて言うの?」
「私、雪。」
「雪、いい名だ。」
それからまた三十分も私たちは黙っていた。ああ、黙っていても少女が私から離れぬのだ。沈黙のうちに瞳《ひとみ》が物語るこのよろこび。私が昨夜書いた「初恋の記」にも、こんな描写がたくさんたくさんあったのだ。夜がふけるとともにお客がぽつぽつ見えはじめた。やはり雪は、私の傍を離れなかったけれど、他のお客に対する私の敵意が、私をすこし饒舌《じょうぜつ》にした。場のにぎやかな空気が私を浮き浮きさせたからでもあったろう。
「君、僕の昨日のとこね、あれ、君、僕を馬鹿だと思ったろう。」
「いいえ。」雪は頬を両手でおさえて微笑《ほほえ》んだ。「しゃれてると思ったわ。」
「しゃれてる? そうか。おい、君、ウイスキイもう一杯。君も飲まないか。」
「私、飲めないの。」
「飲めよ。きょうはねえ、僕、うれしいことがあるんだ。飲めよ。」
「では、すこうし、ね。」
雪は、そう言ってカウンタア・ボックスに行って、二つのグラスにウイスキイをなみなみとたたえて持って来た。
「さあ、乾杯だ。飲めよ。」
雪は、眼をつぶってぐっと飲ん
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