コヒキ(褌引き……臆病者の意)じゃけに雷神《かみなり》様が嫌いでなあ。毎年頼まれて短冊とカエキ(交易)しますとたい」
 やっと理窟がわかった筆者はホッとしながら、小学校の帽子を脱いでお辞儀しいしい帰途に就いた。何だか梅津の先生が非常に損な交易をして御座るような気がして、この婆さんが横着な怪しからぬ婆《ばばあ》に見えて仕様がなかった。後から聞くとこの婆さんは只圓翁よりも高齢であったという。上には上が在ると思ったが、しかし、どうした因縁で翁と識合いになったかは今以てわからない。
 その時の事を思い出すと百年も昔のような気がする。

          ◇

 翁は滅多に外へ出かけない癖に天気の事を始終気にする人であった。それは能を催したり、網打ちに行ったり、歌を詠《よ》んだりするために自然と、そんな習慣が出来たのかも知れないが、そればかりでもなかったように思う。
 舞台上の翁を見た人は翁を全面的に、傲岸《ごうがん》不屈な一本槍の頑固親爺と思ったかも知れぬが、それは大変な誤解であった。勿論能楽の事に関しては一流の定見を持っていて一切を断定的にドシドシ事を運んだが、しかし日常の事に関しては非常に気が弱くて、夫人は勿論、門人や女中にでも遣り込められると、
「成る程のう。よしよし……」
 と眼をつむって云う事を聞いていた。

          ◇

 恩に感ずる事なぞも非常に強く深かった。愛婿野中到氏の言葉なぞは無条件で受容れていたらしい話が残っている。所謂《いわゆる》虫も殺さぬという風で、何か不本意な場合に立ったり、他人の不幸を聞いたりしてオロオロ声になって落涙している事も二三度見受けた位である。
 これは翁の家人以外の人々には意外と思われる話かも知れぬ。しかし、こうした性格があの舞台上の獅子王の如き翁の半面に在る事を思う時、筆者は翁の人格がいよいよ高く、いよいよ深く仰げども及ばぬ心地がして来るのである。
 翁はそうした気の優しさを、いつも単純率直にあらわしていた。老人や子供には非常に細かく気を遣った。天気が悪いと弟子の行き帰りに、
「おお。シロ(辛労)しかろうなあ」
 と眼をしばたたいた。その云い方は普通人の所謂挨拶らしい感じが爪の垢ほどもなかった。心持ちカスレた真情の籠もった声であった。

          ◇

 老夫人と差向いの時に「お日和《ひより》がこう続いては麦の肥料《こえ》が利くまいのう」とか、「悪い時に風が出たなあ。非道《ひど》うならにゃ宜《え》えが」
 とか云って田の事を心配している事もあった。
 翁は自身で畠イジリをするせいか百姓の労苦をよく知っていた。その点は筆者の祖父灌園なぞも屡々《しばしば》他人に賞めていた。
「老先生の話を聞くと太平楽は云われんのう」
「ほんなこと。お能ども舞いよると罰が当るのう。ハハハハ」
 なぞと親友の桐山氏と話合っていた。
 只圓翁が暴風《あらし》模様の庭に出て、うしろ手を組んで雲の往来を眺めている。その云い知れぬ淋しい、悲しげな表情を見た人は皆、そうした優しい、平和を愛する翁の真情を端的に首肯したであろう。

          ◇

 翁の逸話はまだまだ後に出て来るのであるが、それ等の逸話を、ただ漫然と読むよりも、その逸話を一貫する翁の真面目を、この辺で一応考察しておいた方が、有意義ではないかと思う。すなわち、こうした翁の強気と弱気の裏表のどちらが翁の真骨頂か。どちらが先天的で、どちらが後天的のものか、ちょっと看別出来ないようである。
 しかし只圓翁の性格の表裏が徹底的に矛盾しているところに、世を棄てて世を捨て得ない翁の真情が一貫して流露していた事が今にして思い当られて、自ら頭が下るのである。聖人でもなければ俗人でもない。「恭倹|持己《おのれをじし》、博愛|及衆《しゅうにおよぶ》」の聖訓、「上求菩提。下化衆生」の仏願が、渾然たる自然人、ありのままの梅津只圓翁の風格となって、いつまでもいつまでも尊く、ありがたく、涙ぐましく仰がれるように思う。
 現代の能楽師の如く流祖代々の鴻恩《こうおん》を忘れて、浅墓な自分の芸に慢心し、日常の修養を放漫にする。又は功利、卑屈な世間の風潮にカブレ、良い加減な幇間的な稽古と取持で弟子の機嫌を取って謝礼を貪る。生活が楽になると本業の研究向上は忘れてセイラパンツを穿いてダンスホールに行く。茶屋小屋を飲みまわる。女性を引っかけまわるといったような下司っぽい増長者は、こうした翁の謙徳と精進に対して愧死《きし》しても足りないであろう。
 真の能楽師は僅少の例外を除き翁の後に絶えたと云ってもいい。憤慨する人があったら幸である。

          ◇

 翁の芸風を当時の一子方に過ぎない筆者が批評する事は、礼、非礼の問題は例としても不可能事である。
 しかし筆者としては及ばずながらこの機会に出来る限り偽わらざる感想を述べておきたい。門外漢の田夫野人の言葉でも古名人の境界を伝えている事が屡々あるのだから。同時に翁の芸風を知り過ぎる位知って居られる現家元喜多六平太氏や、熊本の友枝御兄弟の批評などは容易に得られないと思うから……。

          ◇

 前記明治二十五年喜多能静氏追善能のため只圓翁は上京し、野中到氏宅に滞在していたが、翁は毎夜のように侯爵黒田長知侯のお召を受けて霞ヶ関に伺候した。
 その節のこと。或る時翁は藤堂伯(先代)から召されて「蝉丸」の道行の一調謡の御所望を受けたが、相手の小鼓は名にし負う故大倉利三郎氏で、予々《かねがね》翁の技倆を御存じの藤堂伯も非常な興味をもって傾聴された。利三郎氏も内心翁を一介の田舎能楽師と思っていたらしいが、無事に一調が済んでお次の間に退くと利三郎氏は余程驚いたものと見えて、直ぐさま翁の前に両手を支《つ》いて、
「実にどうも……」
 と云って他は云わず低頭挨拶したという。翁の実力を直接に評価する参考材料としてはこの逸話がたった一つ残っているきりである。但、野中到氏の手簡に、
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「右藤堂様より伯父(只圓翁)帰宅後、小生今晩は何の御所望なりしやと問いしに右様の次第を話して、あの謙遜家にも聊《いささ》か得意の色見え申候」
[#ここで字下げ終わり]
 とあるところを見ると、この逸話は翁の生涯中の秀逸ではないかと思われる。

          ◇

 筆者は不幸にして装束を着けた翁の舞台姿を一度も見た事がない。
 ただ一度翁の八十八賀能の前日の申合わせの夜であったと思う。門弟中の地謡で翁が「海人」の仕舞を舞ったのを見た。そのほか日々の稽古や他人の稽古を直して御座るのを横から見た姿を思い合わせると、翁の舞台姿がどうやら眼前に彷彿されるようである。
 甚だ要領を得難い評かも知れないが、翁の型を見た最初に感ずる事は、その動きが太い一直線という感じである。同時に少々|穿《うが》ち過ぎた感想ではあるが、翁の芸風は元来器用な、柔かい、細かいものであったのを尽《ことごと》く殺しつくして、喜多流の直線で一貫した修養の痕跡が、どこかにふっくりと見えるような含蓄のある太い、逞しい直線であったように思う。曲るにしても太い鋼鉄の棒を何の苦もなく折り曲げるようなドエライ力を、その軽い動きと姿の中に感ずる事が出来た。
 後年九段能楽堂で名人に準ぜられている某氏の「野守」の仕舞を見た事があるが、失礼ながらあのような天才的な冴えから来た擬古的な折れ曲りとは違う。もっと大きく深い、燃え上るような迫力を持った……何となく只圓一流と云いたい動きであった。
 同じ「野守」でも只圓翁のは時間的には非常に急迫した、急転直下式の感じに圧倒されながら、あとから考えると誠にユッタリした神韻縹渺たる感じが今に残っている。
「海人」の仕舞でも地謡(梅津朔造氏、山本毎氏)が切々と歌っているのに、翁は白い大きな足袋を静かに静かに運んでいた身体《からだ》附が一種独特の柔か味を持っていた。且つ、その左足が悪いために右手で差す時に限って身体がユラユラと左に傾いた。その姿が著しくよかったので大野徳太郎君、筆者等の子方連は勿論、門弟連中が皆真似た。それを劈頭《へきとう》第一に叱られたのが前記の通り梅津朔造氏であった。

          ◇

 シオリは今のように高くなかった。シオリの高さは能によって違う……といったような翁の訓戒が記憶に残っているようにも思う。
 そんな事が在るかどうか知らぬ。筆者の聞き違いかも知れないが書添ておく。

          ◇

 梅津朔造氏の「安宅」の稽古の時に翁は自分で剛力の棒を取って、「散々にちょうちゃくす」の型の後でグッと落ち着いて、大盤石のように腰を据えながら、「通れとこそ」と太々しくゆったりと云った型が記憶に残っている。梅津朔造氏が後で斎田氏と一緒に筆者の祖父を見舞いに来た時に、祖父の前で同じ型を演って見せたが、
「ここが一番六かしい。私のような身体《からだ》の弱いものには息が続かぬ。……芝居ではない……と何遍叱られたかわからぬ」
 と云ううちに最早《もう》汗を掻いていた。
 それからずっと後、先年の六平太先生の在職五十年のお祝で「安宅」を拝見した時に、同じ処で行き方は違うが、同じような大きな気品の深い落付きを拝見して、成る程と思い出した事であった。大変失礼な比喩ではあるが、とにかく恐ろしく古風な感じのするコックリとした型であったように思う。

          ◇

 只圓翁の「山姥」と「景清」が絶品であった事は今でも故老の語艸《かたりぐさ》に残っている。これに反して晩年上京の際、家元の舞台で、翁自身に進み望んで直面《ひためん》の「景清」を舞ったが、この時の「景清」は聊《いささ》か可笑《おか》しかったという噂が残っているが、どうであったろうか。
「烏頭《うとう》」(シテ桐山氏)の仕舞のお稽古の時に、翁は自身に桐山氏のバラバラの扇を奪って「紅葉の橋」の型をやって見せているのを舞台の外から覗いていたが、その遠くをジイッと見ている翁の眼の光りの美しく澄んでいたこと。平生の翁には一度も見た事のない処女のような眼の光りであった。

          ◇

 扇でも張扇でも殆んど力を入れないで持っていたらしく、よく取落した。
 その癖弟子がそんな事をすると非道く叱った。弟子連中は悉《ことごと》く不満であったらしい。
 夏なぞは弟子に型を演って見せる時素足のままであったが、それでも弟子連中よりもズットスラスラと動いた。足拍子でも徹底した音がした。
 平生は悪い方の左足を内蟇《うちがま》にしてヨタヨタと歩いていたが、舞台に立つとチャンと外蟇になって運んだ。
 型の方は上述の通り誠に印象が薄いが、これに反して謡の方はハッキリと記憶に残っている。謡本を前にして眼を閉じると、翁のその曲の謡声《うたいごえ》が耳に聞こえるように思う。ところが自分が謡出してみると、思いもかけぬキイキイ声が出るので悲観する次第である。
 何よりも先に翁の謡は舞いぶりとソックリの直線的な大きな声であった。むろん割鐘《われがね》式ではない。錆の深い、丸い、朗かな、何の苦もない調子であった。
 梅津朔造氏の調子は凜々《りんりん》と冴える、仮名扱いの綺麗な、派手なものであった。
 山本毎氏のは咽喉を開放した、九州地方一流の発音のハッキリし過ぎた、間拍子のキチンとしたもので、いつも地頭を承っていた。
 桐山孫次郎氏のは底張りの柔かな含み声であった。一番穏当な謡と翁門下で云われていた。
 又斎田氏のは凝った、響の強いイキミ声で、謡っている顔付きが能面のように恐ろしかった。
 梅津利彦氏のは声が全く潰れた張りばっかりの一本調子で、どうかすると翁の声と聞き誤られた。
 いずれも翁の謡振りの或る一部分を伝えたものであったらしいが、それ等の謡い盛りの一同の地謡の中に高齢の只圓翁が一人座り込むと、ほかの声は何の苦もなく翁の楽々とした調子の中に消え込んで行った。
 吉本董三氏か大野仁平氏であったと思う。
「先生の傍に座ると、イクラ気張っても紡績会社の横で木綿車を引
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