いているような気持ちになる」
と云って皆を笑わせていたが、全く子供ながらも、そんな感じを受けた。ツクヅク翁の紡績会社振りに驚嘆させられていた。
喜多六平太氏は右に就いて筆者に斯《か》く語った。
「ナアニ。声量の問題じゃない。只圓の張りが素晴らしく立派だったからですよ。全く鍛練の結果ああなったのですね。ですから只圓が死ぬと、皆が皆彼の張りの真似をして、間拍子も何も構わないで、ただ死物狂いに張上げるのです。これが只圓先生の遺風だ。ほんとうの喜多流だってんで、二人集まると怒鳴りくらが初まる。お能の時など吾も吾もと張上げて、地頭の謡を我流でマゼ返すので百姓一揆みたいな地謡になっちまう。その無鉄砲な我武者羅《がむしゃら》なところが喜多流だと思って喜んでいるのだから困りものですよ」
又、梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)は翁の型についてこう語った。
「二十歳ぐらいまではただ鍛われるばっかりで、何が何やら盲目《めくら》滅法でしたがそのうちにダンダン出来のよし悪しがわかって来て、腹の中で批評的に他人の能を見るようになりました。只圓の力量もだんだんわかって来るように思いましたが、同じ力と申しましても、只圓は何の苦もなく遣っているようですから、そのつもりで真似をしてみるとすぐに叱られる。なかなかその通りに出来ないし、第一お能らしくない事を自分でも感ずる。只圓の通りに遣るのにはそれこそ死物狂いの気合を入れてまだ遠く及ばない事がわかって、その底知れぬ謹厳な芸力にヘトヘトになるまで降参させられ襟を正させられたものでした」
◇
牟田口利彦氏の話によると、翁は平生極めて気の弱い、涙もろい性分で、家庭百般の事について角立った口の利き方なんか滅多にしなかったが、それでも能の二三月前になると何となく眼の光りが冴えて来て、口の利き方が厳重になった。大抵の事は大まかに見逃していたものが、能前の昂奮期に入ると、「それはいかん」と云う口の下から自身で立上って始末したという。
こうして月並能であれ祭事能であれ、催能が近付いて来ると翁の態度が、何となく目に立って昂奮して来るのであった。能の当日になると、夏ならば生|帷子《かたびら》の漆紋(加賀梅鉢)に茶と黄色の細かい縦縞、もしくは鉄色無地の紬《つむぎ》の仕舞袴。冬は郡山(灰色の絹紬)に同じ袴を穿いていた。皺だらけの咽喉《のど》の下の白襟が得も云われず神々しかった。
光雲《てるも》神社の祭能の時は拝領の藤巴の紋の付いた、鉄色の紋付に、これも拝領物らしい、茶筋の派手な袴を穿いている事もあった。その時の襟は茶か水色であったように思う。老夫人が能の前日、広袖の襦袢に火のしをかけて襟を附け換えて御座った。
◇
稽古を離れると翁は実になつかしい好々爺であった。地獄の鬼から急に極楽の仏様に変化するのが子供心に不思議で仕様がなかった。たとえば八十八賀の時、能のアトで、
「元気は元気じゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしもうた。クニャクニャになって詰まらん」
と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子《どんす》(であったと思う)のチャンチャンコを引っかけて、鳩の杖を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、
「乳の呑みたい。乳のもう乳のもう」
と七十歳近い老夫人に戯れたりした。
◇
「さあ飴を食うぞ」
と翁が云うと老夫人が、大きな茶碗に水を入れたのを翁の前に捧げる。翁はそれに上下の義歯《いれば》を入れてから水飴やブッキリ飴を口に抓《つま》み込んでモグモグやる。長い翁の顔が小田原提灯を畳んだようになるのを小謡組の少年連が不思議そうに見上げていると、
「フムフム。可笑《おか》しいのう」
と云って翁自身も笑った。
しかしその飴を分けてくれた事は一度もなかった。喰い余りを旧《もと》の通り叮嚀に竹の皮に包んで老夫人に渡すと、茶碗の中の義歯《いれば》を静かに頬張って、以前の厳格な顔に還った。弟子の方を向いて張扇を構えた。
「モグモグ。さあ謡いなさい」
◇
夕方になると翁は一合入の透明な硝子《ガラス》燗瓶に酒を四分目ばかり入れて、猫板の附いた火鉢の上に載せるのをよく見受けた。前記喜多六平太氏の談によると翁は七五三に酒を飲んだというが、これは晩の七の分量に相当する分であったろう。
翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。
筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた自宅《うち》の夕食よりも遥かに粗末な、子供心に有難迷惑なものであった。
そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶には必ず盃一杯分ばかり残していた。
◇
翁から直筆の短冊を貰った人は随分多いであろうと思う。筆者も七八枚持っていたが、人々に所望されて現在巻頭の二枚しか残っていない。[#巻頭に梅津只圓翁の写真と合わせて3枚の写真あり]
筆跡は巻頭に掲ぐる通り、二川様に、お家様、定家様、唐様等を加味したらしい雅順なものである。舞台上の翁の雄渾豪壮な風格はミジンも認められないが、恐らく翁の本性をあらわしたものであろう。歌意は歌詞と共に、能楽の気品情操を一歩も出でない古風なもので月並と云えば、それまでであるが、翁はそれを短冊に自筆して人に与えるのがなかなかの楽みであったらしい。気が向くと弟子の帰りを待たしておいて悠々と墨を磨りながら一二枚宛書いて与えた。
因《ちなみ》に翁の和歌は誰かに師事したものには相違なかったが、その師が誰であったかは遺憾ながら詳《つまびらか》でない。宇佐元緒、大熊浅次郎両氏の談によると有名な大隈言道氏は、翁の存命中、翁の住家に近い薬院今泉に住んでいたから、翁も師事していたかも知れない。その後、言道氏の旧宅に小金丸金生氏が住んでいて、この人に師事していたことはたしかであったという。なおこの他に末永茂世氏が春吉に住んでいたというが、この人に学んだかどうかは詳でない。
福岡の人林大寿氏は奇特の人で、只圓翁の自筆の短冊数十葉を蒐集し、同翁の門下生に分与しようとされたものが現在故あって一纏めにして古賀得四郎氏の手許に預けられている。古賀氏の尽力で、表装されて只圓翁肉筆の歌集として世に残る筈である。翁の歌風を知るには誠に便宜と思うからその和歌を左に掲げておく。
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行路荻 (八十七歳時代)
夕附日荻のはこしにかたむきて
ふく風さむしのべのかよひ路
帰雁
桜さくおぼろ月夜にかりがねの
かへるとこよやいかにのとけき
河暮春 (八十八歳時代)
ちる花もはるもながれてゆく河に
なにをかへるのひとりなくらん
河暮春
大井河花のわかれをしとふまに
はるは流れて暮にけるかな
雉
春雨のふりてはれぬるやま畑の
すゝしろかくれ雉子なくなり
寒松風
枯はてしこすへはしらぬ夜あらしを
あつめてさむき松の声かな
船中月
心なきあま人さへもをのつから
あはれと見えん船のうへの月
夏草
秋になく虫の音きかんたよりにと
はらひのこしゝ庭の夏草
葵
神祭るけふのみあれのあふひ草
とる袖にこそ露はかけゝれ
夕春雨
椿ちる音もしすけき夕くれの
こけちの庭に春雨のふる
葵
加茂山にをふる二葉のあふひ草
とりかさしつゝ神まつるなり
夏草
はたちかふ牛のすかたも見えぬまで
しけりあひたる野への夏草
夕春雨
春雨のふるともわかで夕ぐれの
のきのしのふにつとふ玉水
庭菊
折とりてかさゝぬ袖もさく菊の
はなの香うつす庭の秋風
群雁
いくつらの落きてこゝにあそふらん
堅田のうちにむるゝかりかね
庭菊
くる人もなき菊そのゝ花さけば
はゝき手にとる庭の面かな
蚊遣火
蚊遣火はとまやのうちにたき捨て
しほのひかたにすむ海人の子
新年山
こそのはる花みし峰に年たちて
かすみもにほふよしのゝ山
群雁
治れる御代のしるしと大君の
みいけの雁の数もしられず
船中月
棹さしてうたふ声さへすみにけり
つきになるとの浦の舟人
更衣 (八十九歳時代)
人並にぬきかへぬれと老の身の
またはたさむき夏衣かな
夜蛙
せとちかき苗代小田にかけやとす
月のうへにもなく蛙かな
埋火
桜炭さしそへにけりをもふとち
はなのまとひに春こゝちして
池鴛鴦 (九十二歳時代)
山かけの池の水さえ浅かれと
ことしも来鳴をしの声かな
寒雁啼
露霜のふかき汀の蘆のはに
こゑもしをれて雁そ啼なる
春木 (九十三歳時代)
しはしこそ梅をくれけれ春来ても
いつかさくらと人にまたれつ
夏獣
重荷おひてゆきゝ隙なき牛車
なつのあつさに舌もこかれつ
友獣
をく山の青葉をつたふ木のは猿
つはさなき身も枝うつりして
名所恋 (九十四歳時代)
しのひねの泪の波のかゝるか那
つかしき妙の袖のみなとに
[#ここで字下げ終わり]
◇
茶の湯とか俳諧とかいう趣味は翁にはなかったように思う。ところが最近知人武田信次郎氏から、高川邦子女史の茶室で茶杓《ちゃしゃく》を取った翁の態度に寸分の隙もなかったので、座中皆感じ入ったという通信があった。筆者は聊《いささ》か意外に思って、事の詳細を今一度同氏に問合わせたところ折返して左の通返事が来たから、無躾《ぶしつけ》ながらここに抜き書さしてもらう事にした。(原文のまま)
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「高川邦子女史は高川勝太夫と申す士分の息女にて令妹藤子女史と共に幼稚園小学校等の教師を勤め姉妹ながら孝行の由聞之候。東瀛《とうえい》禅師に参禅し南坊流の茶道を究め南坊録を全写し大乗寺山内の居に茶室を営まれ候。(中略)同庵の茶室の炉縁《ろぶち》は奥州征討の際若松城下よりの分捕として有名なりしが、今は其の茶室の跡もなく炉縁も何処へ伝はり候や不明、姉妹共故人となられ其後の事存じ申さず候。只圓翁の茶事に疎《うと》かりし事は御説の通りに候。そこに只圓翁の尊さが出て来るのに候。只圓翁の茶の手前は決してうまいものにては無かりし筈に候。それに唯翁が茶杓の一枝を手に取りて構へられたる形のみが厳然として寸毫の隙を見せざる其の不思議さは何の姿に候ぞと人々はこの点を驚嘆せしものに候。南坊流の始祖南坊禅師は茶道の堕落を慨して茶事を捨て去つて再び世に出でず。その終る処を知らず候。茶道は能楽以上の技巧の末に走り富裕人の弄《もてあそ》びものに堕《お》ちつくし全く其精神を亡し候。斯《かか》る世に芸術の神とも仰ぐ可き能楽家只圓翁が茶道に接すれば自然に紛々たる技巧の堕気を破つて卓然その神をこの茶杓の形に示現せしめしものと存候。(下略)」
[#ここで字下げ終わり]
又翁が博多北船の梅津朔造氏宅に出向いた際、折節山笠の稚児流れの太鼓を大勢の子供が寄ってたたいているのを、翁が立寄って指の先で撥《ばち》を作って打ち方を指導していた姿が、何ともいえず神々しかったという逸話もある。(前同氏談)一道に達した人だから大抵の事はわかったのであろう。
書画骨董の趣味も鑑識は在ったに相違ないが、生活が質素なせいか格別、玩弄した事実を見聞しなか
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