処へ稽古に行くと、玄関の上り框《がまち》の処(机に向っている翁の背後)に在る本箱から一冊引出して開いてくれる。時には、
「その本箱を開けてみなさい。その何冊目の本の何という標題の処を開けてみなさい」
 と指図する事もあった。
 それを最初から一枚ぐらい宛《ずつ》、念を入れて直されながら附けてもらうので、やはり二度ほど繰り返しても記憶《おぼ》え切れないと叱られるのであった。
 その本はたしか安政二年版行の青い表紙で、「ウキ」「ヲサヘ」や「ヤヲ」「ヤヲハ」又は廻し節、呑み節を叮嚀に直した墨の痕跡と胡粉《ごふん》の痕跡が処々残っている極めて読みづらい本であった。
 この翁の遺愛の本は現在神奈川県茅ヶ崎の野中家に保存して在る筈である。

          ◇

 翁は一番の謡を教えると必ずその能を舞わせる方針らしかった。
 筆者は九歳の時に「鍾馗《しょうき》」の一番を上げると直ぐにワキに出された。シテはたしか故大野徳太郎君であったと思うが、お互に受持の言葉を暗記するかしないかに二人向き合って申合わせをさせられたので、間違うたんびに笑っては叱られた。
 そんな風であったから筆者は小謡とか仕舞とか囃子とかいうものが存在している事をかなり後まで知らずに過ごした。

          ◇

 こうして習っては舞い習っては舞いした稽古順は大略左の通りである。これ以て誠に名聞《みょうもん》がましいが、何かの参考になるかも知れないと思って記憶している通りを書き止めておく次第である。
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(一)鍾馗ワキ(二)同シテ(三)鞍馬天狗ツレ(四)経政(五)嵐山半能(六)俊成忠度(七)花月(八)敦盛(九)土蜘ツレ(十)巻絹ツレ(十一)小袖曾我(十二)夜討曾我――これ以後の順序明瞭に記憶せず、(十三)猩々(十四)小鍛冶(十五)岩船半能(十六)烏帽子折子方(十七)田村(十八)殺生石直面(十九)羽衣ワキ(二十)是界(二十一)蘆苅(二十二)箙《えびら》(二十三)湯谷《ゆや》ツレ(二十四)景清ツレ――但これは稽古だけで能は中止(二十五)船弁慶ツレ、及、海人子方同時(二十六)田村(二十七)土蜘――但し稽古だけにて能は舞わず(以上)
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 その他「清経」シテ、「三井寺《みいでら》」ツレ等が四五番あったと思うが、ハッキリ記憶しない。
 そのうちに十六七歳になったので、翁は舞台に立った筆者を見上げ見下してニコニコした。
「ほう。これは大きゅうなった。もう面《おもて》をかけんとおかしいのう。面をかけると序の舞やら楽《がく》やら舞うけに面白いがのう。ハテ。何にしようか。今度一度だけ『小督《こごう》』にしようか。うむ、『小督』にしよう『小督』にしよう。『土蜘』もええが糸の投げようがチット六かしかろう」
 筆者は「土蜘」が舞いたくて舞いたくてたまらなかった。ずっと以前に河原田翁の追善能で見た金剛某氏の仏倒れや一の松への宙返りをやって見たくて仕様がなかったが、翁が勝手に「小督」にきめてしまったので頗《すこぶ》る悲観した。
 その中《うち》に中学を落第しそうになって稽古を休んだのをキッカケにとうとう翁の処へ行かなくなった。唯「湯谷《ゆや》」のツレと「景清」のツレで面をかけて稽古した切り、シテとしては面を掛けずに終った。
 その永い間翁が筆者に傾注してくれた精魂がドレ位であったろうか。その広大な師恩をアトカタもなく返上してしまった不孝の程は悔いても及ばない今日である。

          ◇

 いよいよ謡の稽古が済むと、まだ文句のつながらないうちにサッサと舞台にかかる。
 翁は筆者が謡い終って本を閉じると(誰に対しても同様であった)張扇を二本右手に持って、
「サア」
 と筆者を一睨《ひとにらみ》しながら立上る。心持ち不叶《ふかな》いな左足を引ずり引ずり舞台に出る。この頃から既に、お能の神様、兼、カンシャクの神様が翁に乗り移っていたように思う。

          ◇

 舞台は京間ではなかったように思う。普通の六尺三間、橋がかり三間で、平生は橋掛り共に雨戸がピッタリと閉まって真暗い。
 鏡板の松は墨絵で、シテ座後方の鴨居に「安和堂」と達筆に墨書した木額が上げて在った。たしか侯爵黒田長成公の筆であったと聞いている。
 その雨戸を翁に手伝って北と東と橋がかりを各一枚宛開いて、あとを平均五六寸宛|隙《す》かす。それから翁はワキ座と地謡座のちょうど中間の位置に在る張盤の前に敷いた薄い茶木綿の古座布団上に座る。
 初めのうちは誰でもワキの詞《ことば》を云う翁に向ってアシラッたのでよく叱られた。翁の詞がいつでも真剣だったので、ツイその方向に釣り込まれる傾向もあった。

          ◇

 ところでこちらは幕の前に引返して立っていると翁はこっちをジロリと見て、今一度「サア」と云う。同時に一声とか次第とかをアシライ初める。
「イヨオオ――。ハオオーハオオー」
 と云ううちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面に漲《みなぎ》り渡る。そのうちに大小の頭《かしら》が来ると翁がソッと横目でこっちを見る。見ない事もあるが、大抵見る場合が多いのだからその時に要領よく受けて出るので、後《おく》れたり早過ぎたりすると翁がパチパチと張扇を叩いて今一度、一声なり次第なりを繰返しながら遣直《やりなお》させる。しかもそのタタキ加減がその日の低気圧のバロメーターになるので、これは老幼を問わず同様の感想であったらしい。
 翁はアシライが中々達者で、役者が橋がかりへ這入る時に打つ次第のヨセ工合がなかなかよかったので囃子方が皆感心して耳を傾けたという。

          ◇

 翁は普通の稽古を附ける場合には袴《はかま》を穿《は》かなかった。これは謹厳な翁に似合わぬ事であったが事実であった。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛《むこうずね》が露出した。

          ◇

 翁は張盤の前に正座した時、必ず足の拇指《おやゆび》を重ね合わせていた。その重なり合った拇指がいつ動くかと思って、大野君と二人で翁の背後の脇桟敷から長い事凝視していた事があったが、決して動かないので根負けした事があった。
 張扇は大抵眼の高さの処まで上げた。肱は両脇から柔かく離し、向うへ伸ばして軽くバタバタとたたいた。肱から手首と張扇の尖端が柔かい一直線を描いて、上っても下っても狂わなかった。
 張扇が張盤を離れるのと掛声が起るのが同時だったので、どうかすると張扇が声を出しているような錯覚を感じた。遠くから見ていると一層そんな感じがした。
 張扇は必ず自分で貼った。筆者も一度貼り方を習ったが忘れてしまった。
「この角の処をこうして……」
 と云う翁の声だけが耳に残っている。
 掛声をかけたり、地謡を謡ったりしているうちに、翁の上顎の義歯《いれば》が外れ落ちてガチャリと下歯にぶつかる事が度々であった。
「衣笠山……ガチャリ。モグモグ……ムニャムニャ……面白の夜遊《やゆう》や……ガチャリ……モグモグ……ヨオチポポオポッポヨオイチョン……ホラホラしおりしおり……ガチャリ……モグモグ……ホオホオ」
 といった調子であった。吾々子供連は、よくその真似をしていたものであるが、その中でも一番上手なのは故大野徳太郎君であった。

          ◇

 毎朝翁は、暗いうちに起きて自分の稽古をする。それから利彦氏を起して稽古をつける。冬でも朝食前に一汗かかぬと気持ちが悪かったらしい。これは翁の長寿に余程影響した事と思う。

          ◇

 食事は三度三度|粥食《かゆしょく》であった。
「年を老《と》ると身体《からだ》を枯らさぬといかん」
 とよく門弟の老人たちに云い聞かせたそうである。

          ◇

 筆者が十四五歳の頃であったか。
 ある春の麗《うら》らかな日曜日の朝お稽古に行ったら、稽古が済んでから翁は筆者を机の前に招き寄せて云った。
「まことに御苦労じゃが、あんた筥崎《はこざき》までお使いに行ってやんなさらんか」
 門下生は翁の御用をつとめるのを無上の名誉と心得ていたので、筆者は何の用事やらわからないままに喜んで、
「行って来まっしょう」
 と請合った。むろん翁も喜んだらしい。ニコニコしてもっとこっちに寄れと云う。その通りにすると今度は両手を突いて頭を下げよと云うので、又その通りにすると翁は自筆の短冊を二枚美濃紙に包んで紙縒《こより》で縛ったものを筆者の襟元から襦袢《じゅばん》と着物の間へ押し込んだ。
「それを持って筥崎宮の二番目の中の鳥居の傍《そば》に在る何某(失名)という茶屋に行って、そこに居る禿頭《はげあたま》の瘠せこけた婆さんへ、その短冊を渡してオオダイを下さいと云いなさい。オオダイ……わかるかの」
「オオダイ」
「そうそう。オオダイ。それを貰うたなら落さんように持って帰って来なさい」
「オーダイ」
「そうそう。オオダイじゃ。雷除けになるものじゃ。わかったかの」
 筆者は何となくアラビアン・ナイトの中の人間になったような気持で田圃通りに筥崎へ向った。オオダイとは、どんな品物だろうと色々に想像しながら……。
 中庄から筥崎までタップリ一里ぐらいはあったろう。途中の田圃には菜種の花が一面に咲いていた。涯てしもなく見晴らされる平野の家々に桃や桜がチラホラして、雲雀《ひばり》があとからあとから上った。
 瓦町の入口で七輪を造る土捏《つちこ》ねを長い事見ていた。櫛田神社の境内では大道《だいどう》手品に人だかりがしていた。
 筥崎松原にはまだ大学校が無かった。小鳥が松の梢一パイに群れていたり、鼬《いたち》が道を横切ったりした。少々淋しくて気味が悪かった。
 こうしてずいぶん道草を喰いながら筥崎に着くと、中の鳥居の横の茶屋は一軒しかなかったので直ぐにわかった。
 中に這入《はい》ると三十四五の女房と、蟇《がま》みたような顔をした歯の無い婆さんが出て来た。いやに眼のギョロリした婆さんであったが、先に出て来て筆者を見上げ見下すと、
「あんたは何しに来なさったな」
 と詰問した。なるほど頭がテカテカに禿《はげ》ている。着物のお蔭でやっと爺さんに見えないような婆さんである。
 筆者は長い道中の間に用向きをハタと忘れているのに気が付いた。背中に短冊が這入っている事なんか恐らく翁の門を出た時から忘れていたろう。どうして何のために来たかイクラ考えてもわからないので泣出したくなった。
 頭の禿げた婆さんは口をモグモグさせながら、怖い眼付で筆者を今一度見上げ見下した。
「どこから来なさったな」
「梅津の先生のお使いで来ました。あの……あの……」
 今度は貰いに来た品物の名前を忘れている事に気が付いた。
 婆さんは歯の無い口を一パイに開いて笑った。
「アッハッハッハッ。オオダイじゃろう」
「はい。オオダイ」
「ふうん。そんならそこへ手を突いてみなさい」
 筆者は上り框へ両手を支《つ》いた。
「頭を下げなさい。そうそう」
 婆さんは痩せ枯れた冷たい手で筆者の背中を探りまわして短冊を引っぱり出した。押頂いて、眼鏡もかけずにスラスラと読んでから又押頂いた。
 それから奥へ這入って神棚の上から一本の薪の半分ばかりの燃えさしを大切そうに持って来て、勿体らしく白紙で包んで、紙縒で結わえながら筆者の懐中に押込んでくれた。
「よう来なさった。これを上げます」
 と云って女房の持って来た駄菓子の紙包みを筆者の手に持たした。筆者は懐中から薪の燃えさしを今一度引っぱり出して見まわした。恐らく妙な顔をしていた事と思う。
「これがオオダイだすな」
 婆さんがうなずいた。
「うんうん。それはなあ。この筥崎様で毎年旧の節分の晩になあ。大|松明《たいまつ》を燃やさっしゃる。その燃え残りを頂くとたい。……これから夏になると雷神《かみなり》が鳴ります。その時にこれを火鉢に燻《くす》べると雷神《かみなり》様が落ちさっしゃれんちうてなあ……梅津の爺さんは身体《からだ》ばっかり大きいヘ
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