時に相当の天狗様であったらしい。或る時はじめて翁に謡のお稽古を願ったら、翁は一応稽古を附けて後でブッスリと云った。
「モウお前は稽古に来るには及ばぬ。私はお前の先生にはアンマリ上等過ぎる」
 これは二三人から聞いた話だから事実としてここに書いておく。腹が立つと、それ位の事は云いかねない翁であったから。
 ところが感心な事に、その劣等生氏は、それでも断然|屁古垂《へこた》れなかった。それ以来降っても照っても頑強に押しかけて来たので、翁もその熱心に愛《め》でたものであろう、叱り叱り稽古を付けてやったが、翁が歿前かなりの重態に陥って、稽古を休んでいる時までも毎日毎日執拗に押かけて来て、枕元で遠慮なく本を開いて謡い出したので、とうとう翁が腹を立てた。
「そう毎日来ては堪らん。大概にしなさい」
 稽古腰のあれ程強い翁に白旗を上げさせたのは古往今来この人一人であろう。同氏は現在梅津正利師範の手で有伝者に取立てられて、大勢の弟子を持っていてなかなか忙しいという。

          ◇

 翁は痩せた背丈の高い人であった。五尺七八寸位あったように思う。日に焼けた頑健な肉附と、どこから見ても達人らし
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