は翁の門下でも古株で相当年輩の老人であったが、或る時新米の古賀得四郎氏が稽古に行くと、大先輩の粟生氏が「箙《えびら》」の切《きり》の謡を習っている。それが老巧の粟生氏の技倆を以ってしてもナカナカ翁の指南通りに出来ないので、何度も何度も遣り直しを喰《くら》っている。新米の古賀氏は何の「箙」ぐらいと思っていたのに案に相違して震え上った。「箙」なぞを滅多に習うものじゃないと思った。
そのうちに粟生氏が「箙」の切の或る一個所をかれこれ二三十遍も遣直《やりなお》させられたと思うと、老顔に浴びるように汗の滝を流しながら、精も気根も尽き果てた体で謡本《うたいほん》の前に両手を突いて、
「今日はこれ位で、どうぞ御勘弁を……」
と白旗を揚げた。古賀氏は今更に只圓翁の稽古腰の強いのに驚いていると翁は平然たる顔で、粟生氏を一睨して、
「そげな事じゃ不可《いか》ん。良く稽古しておきなさい」
と誡《いま》しめてからクルリと古賀氏の方に向き直ってニコニコした。
「アンタにはあのように云わんばい」(古賀得四郎氏談)
◇
芸の方も去る事ながら、癇癖と稽古の厳重さで正しく只圓翁の後を嗣い
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