でいたのは斎田惟成氏であった。
 翁の歿後、師を喪った初心者で斎田氏の門下に馳せ参じた者も些少ではなかったが、斎田氏の八釜しさが出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》があったものと見えて、しまいには佐藤文次郎氏一人だけ居残るという惨況であった。
 それでも余りに斎田氏の稽古振りが酷烈なので、夫人が襖の蔭からハラハラしながら出て来て、
「そんなにお叱りになっては……」
 と諫《いさ》めにかかると斎田氏の癇癪が一層高潮した。
「女風情が稽古場に出入りするかッ」
 といった見幕で一気に撃退してしまった。
「叱られて習うたお謡じゃけに、叱って教えねば勘定が合わぬ」
 などと門弟に云い訳をする事もあった。
 その後斎田氏は勤務先の福岡裁判所から久留米に転勤すると、タッタ一人残っている門弟佐藤文次郎氏のためにワザワザ久留米から汽車で福岡まで出て来て稽古をしてやった。弟子よりも先生の方がよっぽど熱心であった。
 その稽古腰の強いこともたしかに翁の衣鉢《いはつ》を嗣《つ》いでいた。(佐藤文次郎氏談)

          ◇

 翁の門下には名物と云われていた人が三人在った。一人は間辺某という人で、梅津朔造
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