ねて来て、何かしら一曲聞いてもらった。聞いたアトで翁はただ、
「結構なお謡い――御器用なことで――」
とか何とか云ったきり何も云わない。それでも是非遠慮のないところを……と請益《せいえき》したら只圓翁の曰《いわ》く、
「貴方のお謡いはアンマリ拍子に合い過ぎる。それでは謡いとは云われぬ。謡いは言葉の心持ちを謡うもので拍子を謡うものでない。拍子がちゃんとわかっておって、それを通り越した自由自在な謡でなければ能の役には立たぬ」(林直規氏談)
◇
翁は単に稽古のみならず、楽屋内の礼儀にまでも到れり尽せりの厳重さを恪守《かくしゅ》していた。楽屋内で冗談でも云う者があると即刻に破門しかねまじき勢いであった。神事能の時など楽屋内で神社からの振舞酒を飲んで大きな声を出す者なぞがあると、誰にも断らずにサッサと杖を突張って帰宅した。「不埒《ふらち》な奴だ。楽屋の行儀が悪うして舞台が立派に出来ると思うか。お能の精神のわからぬ奴どもの催すお能は受持てん」と云って憤慨したり、
「慰みに遣るのなら、ほかの芸を神様に献上しなさい。神様に上ぐる芸は能よりほかにない道理がわからんか。下司下郎
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