翁を促してサッサと席を立った。
 そのまま筆者の手を引いて帰る事もあった。
「老先生に対して済まぬという考えがない。あいつは下司《げす》下郎じゃ」
 という事をアトでよく云ったが、何の事やら誰の事やらむろんわからなかった。とにかく祖父は何もかも只圓翁を中心にして考えていたらしい。

          ◇

 そんな訳で筆者は九歳から十七歳まで十年足らずの間翁のお稽古を受けた。
 翁も亦そんな因縁からであったろう。筆者を引立てて可愛がってくれて、僅かの間にシテ、ツレ、ワキ役を通じて記憶《おぼ》え切れぬ位数多く舞台を踏ましてくれたものであったが、正直のところを云うと筆者は最初から終いまでお能というものに興味を持っていなかった。ただ子供心に他人から賞められたり、感心されたり、祖父母から、
「お能の稽古をせねば逐い出す」
 と云われるのが怖ろしさに、遊びたい一パイの放課後を不承不承に翁の処へ通っていたものであった。実に相済まぬ面目ない話であるが、実際だったから仕方がない。
 翁もこの点では気付いていたと見えて、筆者が翁の門口を這入ると、
「おお。よう来なさったよう来なさった」
 と云って喜ん
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