ギョロギョロ見まわした。ナアニ……翁はその小さい声の主をちゃんと知っていたのであるが、特に窘《たしな》めるために故意とこうした意地の悪い態度を執《と》ったものである。
そうして幾度も幾度も根気強く「誰かいな誰かいな」を繰返して、トウトウ「私で御座います」と白状させた。
「怪しからん。充分謡が出来もせぬ癖に大切なお能の舞台に出ようとするけに、他人《ひと》に迷惑をかけて、要らざる恥を掻きなさる。その心掛がいかん。私は出来ませんと云うて、何故最初から遠慮しなさらんかいな。鍛練に鍛練を重ねても十分につとまるかどうか判らぬとがお能の常習《つね》じゃ。そげな卑屈な心掛で舞台に出ても宜《え》えものと思うて居《お》んなさるとな。私の眼の黒いうちは其様《そげ》な事は許さん。今度の地謡にはアンタ一人出席を断る。この次から了簡を入れ換えて来なさい」
とうとうその場で某氏は抓《つま》みのけられてしまった。
そのお能の当日の地謡の真剣さというものは恐ろしい位の出来であったという。(故林直規氏談)
◇
或る時、やはり五六人の門下が並んで同吟していた。相当出来た人ばかりであったが、そ
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