仰付られた。
その時長知公の御所望で「石橋」をつとめた事があるという。舞台は判然しないが、その「石橋」で翁の相手をした人々は宝生新朔、清水然知、清水半次郎、長知公、一噌要三郎と記録されている。いずれもが、その時の脇師、囃子方中の名誉の人々であったことは説明する迄もない。
かくて無上の面目を施した翁は四月六日東京出立、同二十七日無事帰県したが、この時の上京を前後として翁の芸風が漸く円熟期に入ったものではないかと思われる理由がある。勿論翁の斯道に対する研鑽《けんさん》と、不退転の猛練習とは晩年に到っても懈《おこた》る事がなかった筈であるが、しかしこの以後の修養は所謂《いわゆる》悟り後の聖胎長養時代で、この前の六十余年は翁の修業時代と思うのが適当のようである。
すなわち翁はこの前後に重き習物の能を陸続《りくぞく》と披露している。
▼明治六年(五十七歳)望月
▼同 七年(五十八歳)正尊、景清
▼同十一年(六十二歳)卒都婆小町
▼同十三年(六十四歳)石橋(前記)
▼同十四年(六十五歳)赤頭道成寺、定家
この明治十四年の「定家」披露後は明治二十五年まで(翁六十五歳より七十六歳に到
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