る)格別の事もなかったらしい。何等の記録も残っていないが、しかもこの十年ばかりの間こそ、翁が芸道保存のために最惨澹たる苦楚《くそ》を嘗《な》めた時代で、同時に翁の真面目が最もよく発揮された時代であった。
明治十四年から同二十五年の間といえば、維新後|滔天《とうてん》の勢を以て日本に流れ込んで来た西洋文化の洪水が急転直下の急潮を渦巻かせている時代であった。人間の魂までも舶来でなければ通用しなくなっていた時代であった。
人々は吾国《わがくに》固有の美風である神仏の崇拝、父母師友の恩義を忘れて個人主義、唯物主義的な権利義務の思想に走ること行燈《あんどん》とラムプを取換えるが如く、琴、三味線、長唄、浄瑠璃を蹴飛ばしてピアノ、バイオリン、風琴、オルガンを珍重すること傘を洋傘に見換える如くであった。朝野の顕官は鹿鳴館に集まって屈辱ダンスの稽古に夢中になり、洋行帰りの尊敬される事神様の如く、怪しげな洋服、ステッキ、金時計が紳士の資格として紋付袴以上の尊敬と信用を払われた事は無論であった。
こうした浅ましい時代の勢いを真実に回顧し得る人々は、国粋中の国粋芸術たる能楽がその当時如何に衰微の極に達し
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