ではなかったであろう。廃《すた》れて行く能楽の真髄、別して自分の窮めた喜多流の奥儀を、せめて九州の一角にでも残しておきたいという一念から翁を見込んで相伝したものに違いなかったであろうが、それでも徳義に篤い只圓翁としては、そのままに過ごす事が出来なかったのであろう。しかも僅か十五円五十銭ぐらいの薄給では到底師恩相当の礼をつくす事が出来ないので非常に苦悩したらしい。
 しかし、さりとて他所から借金して融通するような器用な真似の出来る翁ではないので、とうとう思案に詰まった上、黒田家|奥頭取《おくとうどり》の処へ翁自身に出頭して実情をありのままに申述べ、金子《きんす》借用方をお願いしたところ、何をいうにもお気に入りの翁が、一生に一度の切なる御願いというので殿様も、その篤実な志に御感心なすったのであろう。御内々で金十円也を謝礼用として賜わり、ほかに別段の思召として金子その他を頂戴したので翁は感泣して退出した。大喜びで本懐の礼を尽したという。翁が如何に師匠能静氏から見込まれていたか。同時に又藩公から如何に知遇されておったかがこの事によっても十分窺われる。
 然るに同年五月二十四日、予《かね》てから
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