という。後軍治と改めその後行度と改む。明治九年三月二十日卒す。行栄という。行年五十四歳。
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元来梅津家は前記の通り、黒田藩お抱えの能楽師の家柄として喜多流を相伝していたので、利春は幼少の頃から部屋住のまま藩主斉清公の前に出て御囃子や仕舞《しまい》を度々相勤めて御感に入り、いつも御褒美を頂戴していた。
続いて天保三年の春、師家へ入門の手続をして直ぐに秘曲「翁《おきな》」の相伝を受けた。時に利春十六歳と伝えられているが、これはその時代の事であるから直接上京して入門した訳ではないようである。大藩黒田侯の御取済によって、地方の神社祭事に是非とも奉納しなければならぬ神曲「翁」の允可《いんか》を受けたものであろう。ただ弱冠十六歳で、能楽師家担当の重大責務ともいうべき神曲「翁」の相伝を受けたという一事によって、その当時の黒田藩内の能楽界に於ける利春の声望と実力の如何に隆々たるものであったかが想像される次第である。
それから利春は十二年後の弘化元年の春(二十八歳)と嘉永元年春(三十二歳)と両度上京した。喜多十三世|能静《のうせい》氏に就いて能楽を修業し、重習能《おもなら
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