いらざる心配しなさんな」
なぞと叱っているのを見受けた。
◇
ところで翁の弟子で一番熱心な前記斎田惟成氏はよく翁の網打ちのお供をした。魚籠《びく》を担いで川までお供して行く途中の長い長い田圃道の徒然《つれづれ》なままに翁と雑談をしながら何気なく質問をすると、翁は上機嫌なままに大事な口伝や秘伝を不用意に洩らすことがあった。どうかした時には師匠能静氏から指導された時の有益な苦心談などを述懐まじりで話して行く事もあったらしい。
これは斎田氏の稽古の秘伝で、後にその心持ちで謡ったり舞ったりして翁から賞められた事が度々あったので、とうとうこの斎田氏の秘伝のお稽古法が露見してしまった。そうして、それから後斎田氏は高弟連中から色々な質問を委託されて翁の網打ちのお伴をしなければならなくなったが、時に依ると翁が意地悪く口を緘して一言も洩らさない事があった。
「昨日は不漁《しけ》じゃった」
と斎田氏が翌る日、他の弟子連中に云う。知らない者は翁のホテの魚の串を見て……あんなに沢山獲れているのに……と思ったらしいが、何ぞ計らん。斎田氏の不漁《しけ》は秘伝口伝の不漁であった。(林
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