最早《もう》女王になった気で腰に結んだ縄も何も解き放して、又もや鏡を覗きながら莞爾《にっこ》と笑ったその美しさ、物凄さ。あたりに輝いていた宝石の光りも、一時に暗くなる程で御座いました。その時に鏡の上からぬらぬらと這い降りて来て、美留藻の髪毛《かみのけ》の中に潜り込んだ一匹の小さい蛇がありました。その蛇は身体《からだ》中宝石で出来ていて、その眼は黄玉の光明《ひかり》を放ち、紅玉《ルビー》の舌をペロペロと出していましたが、この蛇が美留藻の紫色の髪毛《かみのけ》の上に、王冠のようにとぐろを巻いて、屹《きっ》と頭を擡《もた》げますと、美留藻は扨こそと胸を躍らせまして、今は彼《か》の石神の物語の赤い鸚鵡と、鏡と、蛇の話しはいよいよ夢でなく本当に在る事で、しかも三ツ共妾が誰よりも先に見付けたのだ。つまりは妾が女王になるその前兆《まえしらせ》に違いないと思い込んで、嬉しさの余りに立ち上って鏡のまわりを夢中になって躍りまわっていました。

     十 生きた骸骨

 ところが一方は香潮《かしお》です。
 香潮は美留藻《みるも》よりも潜るのが下手だったと見えまして、余程美留藻より後《おく》れて沈んで行きましたが、その中《うち》に香潮も亦、最前《さっき》美留藻が通ったような恐ろしい処にさしかかりました。すると今度は形の恐ろしいものばかりではありませぬ。鱶《ふか》だの鮫《さめ》だのは素より、身体《からだ》中に刃物を並べた鯱《しゃち》だの、棘《とげ》の鱗《うろこ》を持った海蛇だのが集《たか》って来て、烈しい渦を巻き立てて飛びかかりましたから、香潮は一生懸命になって、拳固で擲《なぐ》り飛ばし、足で蹴散らして、追いつ追われつ底の方へわけ入りましたが、その中《うち》にやっとこんな魚《うお》の居る処から逃げ出した時には、もう身体《からだ》がグタグタになって、胸が苦しくて眼が眩《くら》んで、死にそうになっていました。けれどもここで引き返しては、村の人々や、両親や、兄弟や、美留藻に対しても極《き》まりが悪いし、第一王様の御命令に背《そむ》く事になりますから、ここは一番死んでも行かねばならぬと、固く思い詰めまして、夢中で手足を動かして行きました。その苦しさ、切なさ。その苦しみのために香潮の身体《からだ》は見る見る肉が落ちて、顔は年寄りのように痩《や》せこけてしまいました。そうしてとうとう底まで行きつかぬうちに気が遠くなって、手も足も動かなくなったまま、ずんずん沈んで行きまして、やがて鏡の傍の宝石の上に落ち付きました。
 これを見付けた美留藻は、最前《さっき》ならば驚いて直ぐにも駈け寄って助け上げるところですが、今ははやすっかり気が変っていましたから、そんな事はしませぬ。香潮の顔を一目見ると、あまりの変りように愛想《あいそ》をつかしまして、いよいよこんな鬼のような顔をした者の妻となる事は出来ないと思いました。
 そうしてここで香潮に捕まっては、逃げて行く事も出来ぬし、女王になる事も出来ぬ。どうしたらよかろうと鳥渡《ちょっと》困りましたが、又気を落ち付けて傍へ寄って見ますと、全く死んだように見えましたから、ほっと一息安心をしまして、何かうなずきながらそっと香潮を抱き上げて、鏡の前に寄せかけました。
 それから最前《さっき》自分が解き棄てた綱の端を見付けて、香潮の身体《からだ》を鏡にグルグル巻きに縛ってしまいますと、その綱を三度強く引いて、上で待っている人々に引き上げてくれと相図をしましたが、自分はそのまま藻を押し分けて、水底《みずそこ》を伝って、どこかへ逃げて行ってしまいました。
 美留藻が引いた三度の相図は、舟の上に両方の綱を持って待っていた、藻取の手にはっきりと伝わりました。それっというので選《よ》り抜きの力の強い若者が四五人、バラバラと駈け寄って綱に取り付いて、一生懸命引き初めましたが、こは如何《いか》に。綱はピンと張り切ったまま、一寸《ちょっと》も上へ上がって来ませぬ。これではいかぬと又四五人綱に取り付きましたが、それでも綱は動きませぬ。それではというので今度は船の上に、かねて用意の車を仕掛けて、それに綱を引っかけて二三十人の者が力を揃えて巻き上げにかかりましたら、やっと二三寸|宛《ずつ》綱が上がり初めました。占めたというので気狂《きちが》いのように勇み立った藻取と宇潮の音頭取りで、皆の者は拍子を揃えて曳《えい》や曳やと引きましたが、綱は矢張り二三寸|宛《ずつ》しか上りませぬ。そうして不思議な事には、最早《もう》鏡を見付けて、綱を結び付けたら用事は済んでいる筈の香潮も、美留藻も、波の上に影さえ見せませぬ。その中《うち》に短い秋の日は、とっぷりと暮れてしまいました。
 今まで最早《もう》香潮が上がって来るか、最早《もう》美留藻が浮き出すかと、一心に海の面《おもて》を見つめていた親や身内の者共は、最早《もう》いよいよ二人共に、死んだものと諦めるより他に、仕方がなくなりました。
 二人の両親の歎きは素より、村の者共の悲しみと驚ろきは一通りではありませんでした。いくら水潜りが上手でも、こんなに長い事水の底に居て生きておられる道理はありません。
 けれどももしや船と船との間に、浮かみ上っているのではあるまいか。又はもしや悪い魚《うお》に喰われたとしても、せめて髪毛《かみのけ》位浮き上がりそうなものだ。いや、死んでいないから浮き上らないのだ。いや、死んでいても浮き上らないのだろう。
 ああかも知れぬ、こうかも知れぬと、吾が事のように皆の者は八釜《やかま》しく評議を初めましたが、この時宇潮と藻取とはやっと気を取り直して、皆の者に向って異口同音に叫びました――
「皆の衆《しゅ》、聞いて下さい。私達はもう立派に諦めを付けました。二人の者は水の底で、鏡を見付けて、綱を結び付けて帰って来る途中で、何か悪い魚《うお》の餌食になったに違いない。そうでなければ最早《もう》疾《とっ》くに浮き上って来る筈だ。こうと知ったらば、前から刃物の一ツも持たせてやるところだったものを。けれども今は歎いても仕方がない。それよりももっと大切な鏡を引き上げるのが、何より肝要だ。
 この鏡は二人の身代りだ。この上もない大切な形見だ。王様のお望みの品だ。さあ御苦労だが皆の衆、元気を出して引いた引いた」
 と涙を払って頼みましたから、皆の者も励まされて、疲れた身体《からだ》を起こして、一所に涙を拭き拭き、又もや綱に取り付きました。
 それからその夜は夜通し引きましたが、綱は相変らず二三寸|宛《ずつ》しか上って来ませぬ。とうとうその翌日《あくるひ》終日《いちにち》、その翌る晩も夜通し、その又翌る日も終日《いちにち》、入れ代り立ち代り大勢の人々が、オイオイ泣きながらこの綱を引きましたが、やっと三日目の晩方、いよいよ綱が残り少なくなりますと、不思議や今まで雲一ツ見えなかった空が、俄《にわか》に墨を流したように掻《か》き曇《くも》って来まして、忽《たちま》ち轟々《ごうごう》と雷鳴《かみなり》が鳴り初め、風が吹き、雨が降りしきりまして、海の上は何千何万の白馬黒馬が駈けまわるように波が立って、沢山に繋《つな》ぎ合わせた船を一時《いちじ》に揉《も》み潰《つぶ》そうとしました。けれども皆の者は、今度はちっとも気を落しませんでした。最早《もはや》この鏡を取らなければ、香潮と美留藻が死んだ甲斐もなく、王様のお望みも絶えてしまうのだ。死んでもこの鏡を引き上げなければ、第一亡くなった二人に対して済まないと、死に物狂いになって夜半過ぎまで引いていますと、その中《うち》に雨も止み風も絶えて、湧き返る波の上の遠くに、電光《いなびかり》がするばかりとなりました。
 すると間もなく海の上に何か真黒な大きなのが出て来て、舷《ふなばた》にドシンと打《ぶ》っつかった様子《ようす》ですから、ソレッとばかり皆が手を添えて、船の上に引き上げました折柄、又一しきり吹き出した風に忽ち空の黒雲が裂けて、磨《と》ぎ澄《す》ましたような白い月の光りが、颯《さっ》と輝き落ちて来ましたから、その光りで初めて浮き上ったものの正体を見ますと、皆の者は一度にワッと叫んで飛び退《の》きました。
 真黒く、又真白く湧き返る波の飛沫《しぶき》を浴みて、船の上に倒れているものは、見るからに凄い程光る白銀《しろがね》の鏡で、ギラギラ月の光りを照り返しています。そうしてその真中には顔や手足の肉が落ちて、濡れた髪毛《かみのけ》をふり乱して、眼を剥《む》き歯を噛み出した生きた骸骨《がいこつ》のようなものが、呼吸《いき》をぜいぜい切らして、あおむけに寝ているではありませんか。皆の者はその恐ろしさ物凄さに、皆ペタペタと座ったまま、暫くは口も利けず、身体《からだ》も固くなっていますと、今の怪物はなおも烈しい呼吸を続けて、唇を笛のようにヒューヒューと鳴らしていましたが、やがて片手で身体《からだ》の綱を解《ほど》いて、立ち上ってあたりを見まわしまして、皺枯《しゃが》れた声で――
「美留藻は帰ったか」
 と尋ねました。その時その白い歯は、月の光りに輝いて、皆を嘲《あざけ》り笑っているように見えました。
 この声を聞くと、今まで腰を抜かしていた藻取|爺《じい》と宇潮は、こいつが何でも香潮と美留藻を殺した化物に違いないと思い詰めましたから、急に元気が出て立ち上りまして――
「これ化物、美留藻も香潮も帰って来ぬぞ」
「大方貴様が喰ったのだろう」
 と掴みかからんばかりに睨《ね》め付けました。
 その声を聞くと又怪物は急に嬉しそうに――
「オオ。そう云う貴方はお父さん、私はその香潮です。そして美留藻はまだ帰らぬと仰《おっ》しゃるのですか」
 と早《は》や声を震わしています。二人は香潮と聞いてハッと驚きましたが、併しこんな化物が香潮などとは思いも寄りませぬから、異口同音に怒鳴り付けました――
「馬鹿な事を云うな。香潮は貴様のような化け物ではない」
「そんな事はありませぬ。私は香潮です。私が香潮です」
 と云いながら狼狽《あわて》て宇潮の傍へ走り寄ろうとしましたが、折から又もや雲の間を洩る月の光りに自分の姿がありありと鏡の中へ映りました。その姿をチラリと見ますと、化物は今度は自分の姿に驚いて、キャッと云うとそのまま眼をまわして、又もや湧き立つ大浪小浪の間に真逆様《まっさかさま》に落ち込んでしまいました。そうしてあとには只|白銀《しろがね》の鏡だけが、ありありと月の光りに輝いて残っておりました。

     十一 金銀の舟

 香潮《かしお》は浅ましい姿になって、不思議に生命《いのち》を長らえまして、一度は人々の前に姿を見せましたが、憐れや化物と間違えられて、そのまま又、湖の波の間に沈んでしまいました。美留藻《みるも》も最初から湖に沈んだまま姿を見せませぬ。とうとう二人共死んだ事に定《き》まりましたから、人々は泣く泣く船を陸《おか》の方へ漕ぎ返しました。二人の形見の鏡を載せて、漕いで行く二人の両親の心地《こころもち》はどんなでしたろう。又|彼《か》の鏡を車に載せて、都へ送る両方の村人の思いはどんなでしたろう。やがて藍丸の都の王様の御殿へ着いて、御殿の大広間で皆が王様にお目通りを許されて、この鏡を取った前後《あとさき》のお話しを申し上げた時、この珍らしい鏡というものを拝見に来ていた、沢山の貴《たっと》い人々の内で、泣かぬ者は一人もありませんでした。そうして両方の村の人達には、王様から沢山の御褒美を下さるし、又香潮と美留藻の両親《ふたおや》には、約束通り金の船と銀の舟を一艘|宛《ずつ》賜わってお帰しになりましたが、二人の親達はもしも今二人が無事に生きていて、この金銀の船を見たならば、どんなにか嬉しかろうと云って歎きました。
 藍丸王はこのお目見得が済むと、直ぐに紅木大臣を呼んで二つの事を申し付けました。一ツはこの鏡を自分の居間の壁に掛けて、まわりに美事な飾りを付ける事。それからも一ツは国中に布告《ふれ》を出して、「今度藍丸王様がお妃を御迎え遊ばすに就《つい》ては、国中で一番の美しい利口な女を御撰みになる
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