して、はや今年の秋の末には、婚礼をするという事に定《き》まりました。
両方の親達や親類や又は香潮や美留藻の喜びは申すまでもありませぬ。村同志の人々も皆その婚礼の日が来るのを楽しみにして今か今かと待ちかねていましたが、最早《もはや》その日まで三週間しかないという時になって、大変な御布告《おふれ》が藍丸王の御言葉だといってこの湖の岸に伝わりました。その御布告はこうでした。
「王様はこの頃世に珍らしい赤い鸚鵡《おうむ》という鳥をお捕《とら》えになった。その鸚鵡という鳥の話で、この多留美の湖の底に白銀《しろがね》で出来た大きな鏡という宝物が沈んでいるという事が解かった。その鏡というものは自由自在に人の姿を写し取るもので、大昔世界の初めに出来た石の神様の胸から現われ出たものだが、今度王様が是非その鏡が御入り用だと仰《おお》せ出された。だからこの湖の縁に住む者のうち誰でも、水潜りの上手な者が水底《みずそこ》の鏡を取って差し上げねばならぬ。その鏡は湖の真中の一番深い処に沈んでいるのだから素《もと》より並大抵の者では取れぬが、併し首尾よくこの役目をつとめて水底の鏡を取って来たものには、男ならば金の舟、女ならば銀の舟を一|艘《そう》御褒美《ごほうび》に下さるとの事だ。誰でもよい、王様のためにこの鏡を取りに行く者は無いか」
この御布告《おふれ》を、美留藻と香潮が住んでいる村の間の、丁度中程に在る魚市場で、役人が大勢の人々を集めて申し渡した時に真先に――
「それは妾《わたし》が取って参りましょう」
と願い出たものは誰あろう、水潜りにかけては村一番と評判の美留藻でした。そうしてそれと一緒に、美留藻の許嫁《いいなずけ》の香潮も美留藻と共々に鏡を取りに行きたいと申し出ました。
これを聞いた役人は躍り上らんばかりに喜んで、今までこの湖のふちをぐるりと布告《ふれ》てまわったが、まだ二人のような勇ましい青年《わかもの》と少女《むすめ》は一人も居なかったと賞《ほ》め千切《ちぎ》りましたが、とにかくそれでは今から直ぐに支度をして、明日《あす》にも取りに行くようにと申し渡して、やがて都の方へ帰りました。村の者の喜びも一通りではありませぬ。何しろこの大きな湖のふちで、この二ツの村より他にこの大役を引き受ける処が無く、しかもその引き受けた者は、村第一の立派な青年《わかもの》と、村第一の美しい少女《むすめ》ですから、皆は最早自分達が取りに行くよりもずっと勢い付いて、直ぐに支度に取りかかりました。その中でも美留藻のお父さんは取りわけ大威張りで――
「どうだ。俺の娘と婿殿を見ろ。えらいもんだ。二人で行けばどんな深い海に沈んだ者でも、直ぐに見つけるに違いない。又どんな恐ろしい魚《うお》が来ても大丈夫だ。二人共魚よりよく泳ぐのだから。ああ嬉しい。俺の娘と婿を見ろ。豪《えら》いもんだ。豪いもんだ」
と無性に喜び狂うておりました。
村人は先ず沢山の湯を沸《わ》かして、二人の身体《からだ》を浄《きよ》めました。それから髪を解かして、身体《からだ》と一所に新らしい布で包みました。そして新らしく作った喰べものを喰べさせて、新規に作った布団《ふとん》の中に、静かに二人を寝かしました。そうして翌《あく》る朝、まだ太陽の出ないうちに種々《いろいろ》の準備《したく》をすっかり整えまして、一ツの船には布で巻いた二人の潜り手、それからもう一ツの船には長い綱を積み、それから村中有り限《き》りの船を皆、沢山の赤や青の藻で飾り立てまして、陸《おか》の方から吹く朝風に一度に颯《さっ》と帆を揚げますと、湧き起る喊《とき》の声と一緒に舳《へさき》を揃えて、沖の方へと乗り出しました。
折柄風は追手《おって》になり波は無し、舟は矢のように迅《はや》く湖の上を辷《すべ》りましたから、間もなく陸《おか》は見えなくなって、正午《ひる》頃には最早十七八|里《り》、丁度湖の真中程まで参りました。そこで皆帆を巻き下して、船と船とをすっかり固く繋ぎ合わして、どんな暴風雨《あらし》が来ても引っくり返らないようにして、二人の潜り手が乗っている船と、綱を積んでいる船とを真中に取り囲みました。この時二人は身体《からだ》に巻いてあった布を取って、各自《てんで》に綱を一本|宛《ずつ》身体《からだ》に結び付けますと、船の両側から一時に、水煙《みずけむり》を高く揚げて、真青な波の底に沈みました。
その中で美留藻は香潮よりも余程水潜りが上手だったと見えまして、香潮よりもずっと先に水を蹴って、銀色の泡を湧かしながら、底深く沈んで行きましたが、沈むにつれて四周《まわり》が次第に暗くなって、今まで泳いでいた魚《うお》は一匹も見えず、その代り今まで見た事もない、身体《からだ》中口ばかりの魚《うお》だの、眼玉に尻尾《しっぽ》を生やしたような魚《うお》だのが泳いでいます。しまいにはとうとう真暗闇になってしまって、遠くから蛍の火のように光る者が見えて来て、だんだんはっきりと傍へ寄るのを見ますと、人間の頭や、鳥の足や、狼の尻尾のような種々《いろいろ》の形をした魚で、それが方々で青い提灯《ちょうちん》のように光ったり消えたりしまして、何だか様子が物凄くなって来ました。美留藻は恐ろしさの余り、よっぽど引き帰そうかと思いましたが、又考え直しまして――
「こんなに気が弱くては仕方がない。妾《あたし》はこの間の夢が本当《ほんと》か嘘か、たしかめに来たのではないか。わざわざお役人様に願って、彼《か》の石神の胸から出た鏡が、本当にあるのか無いのか、見に来たのではないか。もし鏡が本当にこの湖の底にあって、その上に彼《か》の石神の歌の通り、宝蛇が見付かれば、いよいよこの間の夢は本当の夢で、妾は夢の中の美留女姫の生れ変りで、行く末は女王になれるのではないか。
そうしてあの面白い、石神の話しの続きがわかるのではないか。このまま止めて引っ返しては何にもならない。妾は矢張り旧《もと》の漁師の娘になって、面白い事、楽しい事は一ツも見る事も聞く事も出来なくなるではないか。妾は死んでも引き返す事は出来ない。そしてもし妾が女王になるならば、ここで魚《うお》に喰われるような事はあるまい。もし女王になれないのならば、一層《いっそ》の事喰われて死んでしまった方がいい。何でも彼《か》でも運だめしだから、このまま行けるだけ行って見よう」
と勇気を奮《ふる》い起こしてなおも底深く沈み入りました。すると又あたりの様子が変って来て、何の影も見えなくなり、水は死んだ人の肌のように冷たく、静かに、動かなくなりましたから、その恐ろしさ、気味の悪さ。却《かえっ》て最前の怖い形をした魚《うお》が居た方が、余程淋しくなくていいと思った位でした。
けれどもその中《うち》にそこも通り越したと見えまして、はるかの底に、何か美しく光るものが見えて来ましたから、嗚呼《ああ》嬉しい、あれこそ鏡の置いて在る処に違いないと、なおも水を掻《か》き分けて潜って行きますと、やがてそこら中が眼の醒《さ》める程美しく、明るくなって来ました。見ると湖の底の深い、透《す》き通った緑色の水の中に、滑《なめ》らかな光沢《つや》を持った藻が、様々の色の花を着けて茂り合っていて、その間を眩《まぶ》しい光りを放つ魚が、金色銀色の泡を湧かしながら、右往左往にヒラヒラと泳ぎまわり、中には不思議そうに眼玉を動かしながら、美留藻の顔を覗《のぞ》きに来たり、または仲よさそうに身体《からだ》をすり付けて行くのもあります。
その中《うち》に湖の底と見えて、沢山の宝石が一面に敷き並んで、色々の清らかな光りを放っている処へ来ました。
何しろ美留藻は生れて初めて、こんな不思議な美しい処へ来たのですから、感心のあまり暫くは夢のように、恍惚《うっとり》と見とれていましたが、又鏡の事を思い出しまして、斯様《かよう》な美しい処に隠して在る鏡というものは、どんな美しい不思議な宝物であろう。早く見付けたいものだ、と思いながら、又もや長い深い藻を掻き分け、魚を追い散らして、宝石の上を進んで行きますと、間もなく向うの一際美しい藻の林の間に、チラリと人間の影が見えました。扨《さて》は香潮さんが最早来ているのかと思いまして、急いでその方へ足を向けますと、向うでも気が付いたと見えて、この方《ほう》へ急いで来る様子です。その中《うち》にだんだん近寄って参りますと、香潮と思ったのは間違いで、彼《か》の夢の中で見た美留女姫に寸分違わぬ、凄い程美しいお姫様《ひいさま》がたった一人、静かに歩いて来るのでした。美留藻は今更にその美しさに驚いて思わず立ち止まりますと、向うも美留藻の姿を見付けて、驚いたような顔をして歩みを止めました。美留藻はこれは屹度《きっと》夢の中の美留女姫が現われて、妾に鏡の在《あ》り所《か》を教えにお出でになったに違いない。そうして妾は矢っ張り旧来《もと》の通りの美留藻で、お姫様でも何でもなかったのだと思いまして、あまりの恥かしさに顔を手で隠しますと、先方《むこう》でも顔に手を当てました。自分の真似をされて、美留藻はいよいよ恥かしくなって、宝石の上にペタリと座りますと、先方も亦ペタリと座ります。オヤと思いながら立ち上って向うを見ますと、向うも矢張り立ち上ってこの方《ほう》を見ていました。試しに両手を動かして見ますと、向うでも動かします。足を踏みますと先方《むこう》も踏みます。
扨《さて》はと思って近寄って見ますと、これが紛《まぎ》れもない白銀の鏡で、今まで美留女姫と思ったのは自分の姿が向うに映っているのでした。
美留藻は驚いた余りに、我れを忘れて、あっと叫ぼうとしましたが、その拍子《ひょうし》に冷たい水が口の中に這入りましたので、又やっと自分が湖の底に居るのに気が付きました。そうして手足をぶるぶると震わせながら、眼の前の不思議に見惚《みと》れて、恍惚《うっとり》としてしまいました。美留藻は今まで賤《いや》しい漁師の娘で、自分の姿なぞを構った事は一度も無く、殊にこの国では昔から、鏡というものを見た者も聞いた者も無く、つまり自分の姿を見たのはこれが初めてでしたから、驚いたのも無理はありませぬ。
扨はこれが妾の姿か。妾は矢張り美留女姫であったのか。妾はこんなに美しかったのか。こんなに気高い女であったのか。漁師の娘なぞというさえ勿体《もったい》ない。女王と云った方がずっとよく似合っているこの美しさ、気高さ、優しさ。まあ、何という艶《あで》やかさであろう。そうして妾は矢張り彼《か》の夢の中の書物で見た通りに、女王になるのであったかと思うと、最早嬉しいのか恐ろしいのか解からずに、そのまま気が遠くなりまして、宝石の上に座り込んで、一生懸命気を押《お》し鎮《しず》めました。
扨やっと気が落ち付いてから、又もや鏡の傍へ差し寄って、つくづくと自分の姿に見とれましたが、見れば見る程美しくて、とてもこの世の人間とは思われませぬ。こんな綺麗な容色《きりょう》を持ちながら、こんな気高い姿でありながら、もし彼《か》の夢を見なければ、彼の低い暗い家の中に住んで、あの泥土を素足で踏んで、彼《か》の腥《なまぐさ》い魚《うお》を掴むのを、自分の一生の仕事に為《す》るところであったのか。姿は美しいとはいえ、又笛は名人とはいえ、どうせ只の漁師の伜《せがれ》の、彼《か》の汚い着物を着た香潮の妻になって、つまらなく暮すのが自分の身の上だったのか。嗚呼《ああ》、勿体ない。勿体ない。この鏡や宝石を海の底に沈めておくよりも、まだずっと勿体ない事だ。どうかして妾は妾に似合ったずっと気高いお方の処へお嫁に行って、彼《か》の絵の通りに女王になって見たいものだ。藍丸国の天子様の御妃になって、この姿をもっと美しく気高くして、国中の人達に見せびらかしたいものだ。思えばこの鏡は世界中の女の中《うち》で、妾が一番最初に自分の姿をうつしたのだから、もしかしたら妾をそういう身分にするためにここに沈んで、妾を待っていたのかもしれぬ。いや、屹度そうなのだ。それに違いない。そうだそうだと、忽ちの内に気が変りました美留藻は、
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