ん》が玉のような水を水晶の盃《さかずき》に掬《く》んで来て、謹《つつ》しんで眼の前に差し出したから、取り上げて飲んで見ると……その美味《おい》しかった事……そうしてその水には何か貴《たっと》い薬でも這入っていたものと見えて、今までの疲れも苦しさもすっかりと忘れてしまって、身体《からだ》中に新らしい元気が満ち渡るように思った。
 青眼|爺様《じいさん》は白髪小僧の藍丸王が飲み干した盃を受け取って、傍の小供に渡すと直ぐに又眼くばせをして、六人の小供を皆遠くの廊下へ退《しりぞ》けて、只《ただ》独《ひと》り王の前に蹲《ひざまず》いて恐る恐る口を開いた――
「王様。恐れながら王様は只今何か夢を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか」
 藍丸王は又もや言葉がよく解らないために返事が出来なかった。只何だかわからないという徴《しるし》に、頭を軽く左右に振って見せた。けれども青眼爺は何だか心配で堪《たま》らぬように、じっと藍丸王の顔を見つめていた。そうして重ねて一層叮嚀な言葉で恐る恐る尋ねた。
「王様。私は今日迄王様のお守り役で御座いました。で御座いますから、今まで何事も私にお隠し遊ばした事は一ツとして御座いませんでした。私は王様を御疑い申し上げる訳では御座いませぬけれども、もしや王様は、只今御覧遊ばした夢を御忘れ遊ばしたのでは御座いませぬか。白い着物を着た悪魔の娘と一所に、私の跡をお追い遊ばして、銀杏の葉に書いた文字を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか。屹度、屹度御覧遊ばしませぬか。もし御隠し遊ばすと王様の御身《おみ》の上やこの国の行く末に容易ならぬ災《わざわ》いが起りまするぞ」
 青眼の言葉は次第に烈《はげ》しくなって来た。そしてさも恐ろしそうに王の顔を見入りながら、力を籠《こ》めて問い詰めた。
 青眼がどうしてこんな事を尋ねるのか、又あの銀杏の葉に書いてあったお話が何故こんなに気にかかるのか。そうして又あのお話を聞けば何故そんな災いがふりかかるのか――そして青眼はどうしてそれを知っているのであろうか。藍丸王がもし当り前の人間ならば、こんないろいろの疑いを起して青眼にその仔細《わけ》を尋ねるであろう。ところが藍丸王は旧来《もと》の白髪小僧の通り白痴《ばか》で呑気《のんき》でだんまりであった。第一今の身の上と最前《さっき》までの身の上とはどっちが本当《ほんと》なのか嘘なのか、それすら全く気にかけなかった。その上に自分が白髪小僧であった事なぞは疾《とっ》くの昔に忘れてしまっている。そして只眼を丸く大きくパチパチさせながら頭を今一度軽く左右に振った切りであった。
 青眼は、いよいよ王があの夢を見ていないのだと思うと、急に安心したらしく、ほっと嬉《うれ》しそうな溜《た》め息《いき》をした。そして又|恭《うやうや》しく長いお辞儀をしながら――
「王様。私はこのように安堵《あんど》致した事は御座いませぬ。夜分にお邪魔を致しましていろいろ失礼な事を申し上げた段は、幾重《いくえ》にも御許し下さいまし。最早《もう》夜が明けて参りました。小供達を喚《よ》んで朝のお支度を致させましょう」
 と云った。
 老人が又改めて長い最敬礼をして退くと、入れ交《かわ》って空色の着物を来た最前《さっき》の小供等が六人、今度は手に手に種々《いろいろ》な化粧の道具を捧げながら行列を立てて這入って来て、藍丸王に朝の身支度をさせた。
 一人がやおら手を取って王を寝床から椅子へ導くと、一人は大きな黄金《きん》の盥《たらい》に湯を張ったのを持って、その前に立った。傍の一人は着物を脱がせる。他の一人は嗽《うがい》をさせる。も一人は身体《からだ》中を拭《ぬぐ》い上げる。残った一人はうしろから髪を梳《す》く。おしまいの一人は香油《においあぶら》を振りかける。皆順序よく静かに役目をつとめて、先《ま》ず黒い地に金モールを附けた着物を着せ、柔らかい青い革の靴を穿《は》かせ、金銀を鏤《ちりば》めた剣を佩《は》かせて、おしまいに香油を塗った緑色の髪を長く垂らした上に、見事な黄金《きん》の王冠を戴《いただか》せて、その上に厚い白い、床に引きずる位長い毛皮の外套《がいとう》を着せたから、今まで着物一枚に跣足《はだし》でいた白髪小僧の藍丸王は、急に重たく窮屈なものに縛《しば》られて、身動きも出来ない位になった。それから六人の小供達は三組に分れて、室《へや》の三方に付いている六ツの窓を開いて、朝の清らかな光りと軽い風とを室一パイに流れ込ませた。そうして暁の透《す》き通った青い光りの裡《うち》にうつらうつら瞬く星と、夢のように並び立っている宮殿《ごてん》と、その前の花園と、噴水と、そのような美しい景色を見て恍惚《うっとり》としている藍丸王を残して、種々《いろいろ》の化粧道具と一所に、六人の小供はどこへか音も無く退いてしまった。

     六 大臣と漁師

 これから後《のち》、藍丸王が見たいろいろの出来事は、当り前の者ならばその都度《つど》驚いて、眼でも眩《ま》わして終わなければならぬような事ばかりであった。
 今日は藍丸国王の御誕生日だというので、紅木《べにき》公爵という、丈の高い、黒い髪を生やした、あの美留女《みるめ》姫のお父様によく肖《に》た総理大臣と、沢山の護衛の兵士に連れられて、お城の北の紫紺樹《しこんじゅ》という樹の林の中に在る、石神の御廟《みたまや》に朝の御参りをしたが、その時沢山の兵士が皆一時に剣を捧げて敬礼をした時の神々《こうごう》しかった事。それから宮中の大広間に出て、大勢の尊い役人や、この国の四方を守る四人の王様や、その家来達から、一々御祝いの言葉を受けた時の厳《おご》そかだった事。又は美事な十二頭立の馬車に乗って、前後を騎兵に守らせながらお城の南の広い野原に出て、何万何千とも知れぬ兵隊の観兵式を行《や》らせた時の勇ましかった事。それから夜になって、宮中に催された大音楽会と、大舞踏会と、大晩餐会《だいばんさんかい》の大袈裟《おおげさ》であった事。その他見る者聞くもの何一ツとして、眼を驚かし耳を驚かさぬものはなかった。
 けれども白痴《ばか》の白髪小僧の藍丸王は、相変らず悠々と落ち付いて、まるで生れながらの王ででもあるように、ニコニコ笑いながら澄まし込んで、大勢の家来に平常《ふだん》よりずっと気高く有り難く思わせた。
 けれどもこの日の内に藍丸王が心から美しい、可愛らしい、珍しい、不思議だと感心したらしいものが只一ツあった。それは一羽の赤い羽子《はね》を持った鸚鵡であった。この鸚鵡は最前《さっき》の紅木という総理大臣の息子で、平生《ふだん》王の御遊び相手として毎日宮中に来ている紅矢《べにや》という児《こ》が、今日は少し加減が悪くて御機嫌伺いに参りかねます故《から》、代りの御慰《おなぐさ》みにと云って遣《よこ》したもので、王の室《へや》の真中の象牙張《ぞうげば》りの机の上に籠《かご》に入れて置いてあったが、奇妙な事にはその歌う声が昨夜《ゆうべ》夢の中《うち》で聞いた美留女姫の声にそっくりで、眼を瞑《つぶ》って聞いていると姫が直ぐ側に来ているように思われた。
 その上にも不思議な事には、何事に依らず見た事は見たまま、聞いた事は聞いたままその場限りで綺麗に忘れて了《しま》う白髪小僧の藍丸王が、彼《か》の美留女姫の姿や声だけははっきりとよく記憶《おぼ》えていたものと見えて、今しも宴会が済んで自分の室《へや》に連れられて帰ると直ぐに、この赤鸚鵡の声に耳を留《と》めて、着物を着かえる間《ま》も待ち遠しそうに、急いで傍の銀の椅子に腰を卸《おろ》すとそのまま一心にその歌に聞き惚《と》れた。
 その歌の節は云うに及ばず、文句までも昨夜《ゆうべ》の夢の美留女の読み上げた歌によく似ていた。
「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。
 黒い海には波が立つ、それでも直ぐに消えて行く。
 昔ながらの世の不思議、見たか聞いたか解かったか。

 昨夕《ゆうべ》妾《わたし》が見た夢の、扨《さて》も不思議さ恐ろしさ。
 白髪小僧の物語。そして妾の物語。

 その又夢の中で見た、この身の上のおしまいに、
 昨夜《ゆうべ》どこかの森|中《なか》へ、白髪小僧と逃げ込んで、
 樹の根に倒れたそれ迄は、妾は美留楼《みるろう》公爵の、
 第三番目の女の子、名をば美留女というたのに、
 今朝《けさ》眼が覚めて気が付けば、扨も不思議や見も知らぬ、
 藍丸国の大臣で、紅木と名乗る公爵の、
 第三番目のお姫様《ひいさま》、これはどうした事でしょう。

 着物も家も何もかも、すっかり変って吾が名さえ、
 美紅《みべに》とかわっておりまする。只変らぬは御両親、
 お兄様や姉様や、又は家来の顔ばかり。

 これは夢かと疑えば、傍から皆《みんな》笑い出し、
 お前は何を云うのです、何か夢でも見たのかえ。
 お前は旧来《もと》からこの家《うち》の、可愛い可愛い美紅姫。

 ずっと前からお話が、何より何より大好きで、
 御本ばかりを読み続け、夢中になっておった故、
 いくらか気持が変になり、十幾年のその間、
 他《た》の処へ居たという、馬鹿気た長い夢を見て、
 それを本当にして終い、寝ぼけているのに違いない、
 可笑《おか》しい人と皆《みんな》から、お笑い草にされました。

 けれども妾はどうしても、今の妾が本当か、
 昔の妾が夢なのか、疑わしくてなりませぬ。

 妾の今が夢ならば、あれだけ皆《みんな》で笑われて、
 また疑っている筈は、どう考えてもありませぬ。
 昔の妾が本当《ほんと》なら、まだ夢を見ぬその前を、
 少しも思い出す事が、出来ない筈はありませぬ。
 今も昔も本当《ほんと》なら、又はどちらも夢ならば、
 妾は居るのか居ないのか、解らぬようになりまする。

 よし夢にせよ何にせよ、妾の不思議な身の上を、
 よく考えて頂戴な、妾の窓の直ぐ傍に、
 妾の歌の真似をする、大きな綺麗な赤鸚鵡。

 怪しい夢の今朝|醒《さ》めて、日が出て月は沈んでも、
 鳥が木の間《ま》に歌うても、まだ眼に残る幻影《まぼろし》は、
 白い御髪《おぐし》に白い肌、月の御顔《おんかお》雲の眉《まゆ》、
 世にも気高い御姿《おんすがた》、乞食の王の御姿。

 白い御髪《おぐし》を染め上げて、緑の波をうずまかせ、
 金《こがね》の冠《かんむり》差し上げて、銀の椅子に召されたら、
 まだ拝まねどこの国の、尊いお方に劣るまい。

 妾の大切《だいじ》な姉様は、はや近い内皇后の、
 位に御即《おつ》きなさるとか、今朝兄上が仰《おっ》しゃった。
 兄上様の御名前は、聞くも凜々《りり》しい紅矢様、
 姉上様の御名前は、花の色添う濃紅姫《こべにひめ》。

 妾は大切《だいじ》な姉様の、世にも目出度い御仕合わせ、
 嬉しい事と思いつつ、楽しい事と思いつつ、
 自分は独り居残って、昨夜《ゆうべ》の夢の御姿《おんすがた》、
 白いお髪《ぐし》の御方《おんかた》を、又無いものと慕《しと》うては、
 淋しく暮す身の上を、誰かあわれと思おうか。

 よしや憐《あわ》れと思うても、よしや不憫《ふびん》と思うても、
 昨夜《ゆうべ》の夢をくり返し、又見る術《すべ》はないものを、
 青い空には雲が湧く、けれども直ぐに散り失せる。
 黒い海には波が立つ、けれども直ぐに消えて行く。
 消えぬ妾のこの思い、見たか聞いたか解ったか。

 空行く鳥を追い止むる、それより難《かた》いこの願い。
 早瀬の香魚《あゆ》を掬《すく》い取る、それより難いこの願い。
 夢かまことかまだ知らぬ、うつつともないまぼろしを、
 愚かに慕うこの心、見たか聞いたか解ったか」
 藍丸王は我れを忘れてこの歌に聞き惚《と》れていた。そうして昨夜《ゆうべ》の夢の続きでも見ているように、美留女姫の姿を想い浮めていると、暫《しばら》く黙っていた鸚鵡は又もや頭を低く下げて前と同じ声の同じ節で違った歌を唄い出した。
「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。
 黒い海には波が立つ、けれども直ぐに凪《な》いでゆく。
 昔ながらの世の不
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