留女姫《みるめひめ》』という言葉が、チャンと二行に並んで書いてあったのである。姫は白髪小僧の事は兼々《かねがね》お附の女中から委《くわ》しく聞いて知っていたが、今目の前に自分の名前と一緒にチャンと並べて書いてあるのを見ると、どうしても誰かの悪戯《いたずら》としか思われなかった。
けれども姫が又急いで次の頁《ページ》を開いて見ると、今度はいよいよ二人の名前が出鱈目《でたらめ》に並べてあるのではなく、この書物には本当に、自分と白髪小僧の身の上に起った事が書いてあるのだという事がわかった。その第三頁目には王冠を戴《いただ》いた白髪小僧の姿と美事な女王の衣裳を着けた美留女姫が莞爾《にっこ》と笑いながら並んでいる姿が描《か》いてあった。
もう姫はこの書物から、一寸《ちょっと》の間《ま》も眼を離す事が出来なくなった。すぐに第四枚目を開いてそこに書いてあるお話を次から次へと読んで行くと、疑いもない自分の身の上の事で、姫がお話の好きな事から、身の上話を買いに出かけた事、そうして銀杏の根本でこの書物を見つけたところまで、すっかり詳《くわ》しく書いてあるものだから、全く夢中になってしまって、これから先どうなる事だろうと、先から先へと頁を繰りながら、家《うち》の方へ歩いているうちに、一足|宛《ずつ》川岸の石崖の上に近づいて来た。折からそこを通りかかった二三人の人々はこの様子を見て胆《きも》を潰《つぶ》し――
「危いッ、お嬢様危い。ソラ落ちる」
と大声揚げて駈け附けた。
併《しか》し姫は書物に気を取られていたから人々の叫び声も何も耳に入らなかった。
矢張《やっぱ》り平地《ひらち》を歩いているつもりで片足を石垣の外に踏み出すや否や、アッと云う間もなく水煙《みずけむり》を立てて落ち込んでドンドン川下へ流れて行った。
けれども仕合わせと白髪小僧の御蔭《おかげ》で危い命を拾ったが、これが縁となって美留女姫は白髪小僧を吾《わ》が家《や》へ連れて来て、両親を初め皆の者に白髪小僧と自分との身の上に起った、今までの不思議な出来事を読んで聞かせると、皆心から驚いて、一体これはその書物に書いてあるお話しか、それとも本当に二人の身の上に起った事かと疑った。そうして今の話で、この間赤い鸚鵡が云った一番|長生《ながいき》の白髪頭の奇妙な姿をした老人というのはお爺さんでもお婆さんでも何でもなく、この白髪小僧の事に違いないことがわかった。成程、白髪小僧ならば、世界中で二人とない不思議な身の上話を持っているに違いない。そうしてそれを聞くのは世界中でこの人達が初めてで、しかもそれが美留女姫の身の上と一所になって、どこかまだ知らぬ国の王様と女王になるらしく思われたから、皆の者は最早《もう》先が待ち遠しくて堪《たま》らなくなって――
「それからどうしたのです。早く先を読んで下さい」
と口々に催促《さいそく》をした。
三 青い眼
美留女姫も同じ事で、最前《さっき》水に落ちたのを、白髪小僧に救い上げられてから今までの出来事は、皆本当に自分の身の上に起っている事か、それともこの書物に書いてあるお話しかと疑った。そうして皆から催促される迄もなく、白髪小僧と自分の身の上のお話がどうなるか、早く読みたくて堪らなかったけれども、一先ずじっと気を落ち着けて皆の顔を見まわしながらニッコリと笑った。そうして――
「待って下さい。妾《わたし》もこれから先どうなるか知らないのです。今から先を読みますから静かにして聞いていて下さい」
と云いながら、胸を躍らせて次の頁を開いた。
見ると……どうであろう。次の頁は只の白紙《しらかみ》で、一字も文字が書いて無いではないか。これは不思議……今まであった話が途中で切れる筈《はず》はないと思いながら、慌てて次の頁を開いたがここも白紙《はくし》で何も書いて無い。その次その次とお終い迄バラバラ繰り拡げて見たが矢張《やっぱ》り同じ事。真逆《まさか》白髪小僧と自分の身の上が、これでおしまいになった訳ではあるまいと、美留女姫は胸が張り裂ける程驚き慌てて、今度は前の方を引っくりかえして見ると又驚いた。今まであんなに書き続けてあった文字が一字も無く、この書物は全くの白紙《しらかみ》の帳面と同じ事になっていた。
美留女姫はあまりの事に驚き呆《あき》れて思わず書物から眼を離すと又不思議、今までたしかに大広間の中で大勢の人に取りまかれて、書物を読んでいた筈なのに、今見まわせばそんなものは、書物の文字や挿《さ》し絵《え》と一所に、どこかへ綺麗《きれい》に消え失せてしまって、自分は矢張り最前の銀杏《いちょう》の根本に、書物を持ったままぼんやりと突立っているのであった。しかも眼の前の最前書物の置いてあった銀杏の樹の根本には、いつの間にどこから来たか、白髪小僧が腰をかけていて、お話を聞きながらうとうとと居睡《いねむ》りをしているではないか。姫は何だかサッパリ訳がわからなくなった。最前からのいろいろの不思議の出来事は、矢張り本当の事ではなく、皆この書物を読みながらそのお話しの通りに自分が為《し》たように思っただけで、本当は矢張り最前《さっき》からここに立ったままで、白髪小僧は自分の気付かぬ間《ま》にここに来て眠っているのだとしか思われなかった。姫は益々呆れてしまって、思わず手に持っていた書物をパタリと地上《じべた》に取り落すと、間もなく颯《さっ》と吹いて来た秋風に、綴《と》じ目《め》がバラバラと千切れて、そのまま何千何万とも知れぬ銀杏の葉になって、そこら中一杯に散り拡がった。見るとその葉の一枚|毎《ごと》に一字|宛《ずつ》、はっきりと文字が現われている様子である。
重ね重ねの不思議に姫は全く狐に憑《つま》まれた形で、ぼんやりと突立って見ていると、その内に又もや風が一しきり渦巻《うずま》き起《た》って、字の書いてある銀杏の葉をクルクルと巻き立てて山のように積み重ねてしまった。
するとそこへどこからか眼の玉と髪毛《かみのけ》と鬚《ひげ》が真青な、黄色い着物を着た一人のお爺《じい》さんが出て来たが、この銀杏の葉の山を見ると、これも何故《なぜ》だか余程驚いた様子で――
「これは大変な事になった。一時《いっとき》も棄てておかれぬ」
と云いながら直ぐ傍《そば》の石作りの門の中に這入ったが、やがて大きな袋と箒《ほうき》を持って来てすっかり銀杏の葉をその中へ掃《は》き込《こ》んで、どこかへ荷《かつ》いで行く様子である。これを見ていた姫はこの時はっと気が付いて、あの銀杏の葉に書いてある字を集めると、屹度《きっと》今までのお話しの続きがわかるのに違いないと思ったから、持って行かれては大変と急に声を立てて――
「お爺さん、一寸待って下さい」
と呼び止めた。
けれども青い眼の爺様は見向きもしないで唯《ただ》――
「何の用事だ」
と云い棄ててずんずん先へ急いで行った。
美留女姫はこれを見ると、慌ててお爺さんに追《お》い縋《すが》って――
「お爺さん。何卒《どうぞ》御願いですから待って下さい。そうしてその銀杏の葉に書いてある字を妾に読まして下さい」
と叮嚀《ていねい》に頼んだ。けれどもお爺さんは矢張り不機嫌な声で――
「馬鹿な事を云うな。これは悪魔の文字だ。これを見ると悪魔に魅入られるのだ。見せる事は出来ない」
と答えながらなおも足を早めて急いで行く。
美留女姫は気が気でなくなおもお爺さんに追い縋って尋ねた――
「では貴方《あなた》はそれをどうなさるのですか」
「うるさい女の子だな。山へ持って行って焼いてしまうのだ」
「エエッ。それはあんまり勿体《もったい》ないじゃありませんか。それには面白いお話しが沢山書いてあるのです。妾はそれを読んでしまわなければ、今夜から眠る事が出来ませぬ。明日《あした》からは生きている甲斐《かい》が無くなります。何卒《どうぞ》、何卒《どうぞ》後生ですから妾を助けると思って、その銀杏の葉に書いてある字を読まして下さい。ね。ね」
と泣かんばかりに頼みながら、老人に追い付いて袖に縋ろうとした。けれども爺さんは尚も意地悪くふり払って――
「そんな事を俺が知るものか。この銀杏の葉に書いてある文字は、藍丸国《あいまるこく》の大切な秘密のお話しで、これをうっかり読んだり聞いたりすると、藍丸国に大変な事が起るのだ。とてもお前達に見せる事は出来ない。諦《あきら》めて早く帰れ」
と云いながら一層足を早めて歩き出した。
するとこの様子を見ていた白髪小僧は、何と思ったか忽《たちま》ちむっくり起き上って、大急ぎであとを追っかけはじめた。その中《うち》に美留女姫も一生懸命に走ってお爺さんに追い付いて、何を為《す》るかと思うと、懐《ふところ》から小さな鋏《はさみ》を取り出して、お爺さんが荷《かつ》いで行く袋の底を少しばかり切り破った。そうして、その破れ目から落ちる銀杏の葉を、お爺さんが気付かぬように、ずっと後ろから拾って行きながら、その上に書いてある一字一字を清《すず》しい声で読み初めたが、その一字一字は不思議にも順序よく続き続いて、次のような歌の文句になっていた。
四 石神の歌
「三千年の春|毎《ごと》に、栄え栄えた銀杏の樹。
三千年の夏毎に、茂り茂った銀杏の樹。
梢《こずえ》に近い大空を、月が横切る日が渡る。
流るる星の数々は、枝の間に散り落ちて、
千万億の葉をふるう、今年の秋の真夜中の、
霜に染《そ》め出《だ》す文字の数、繋《つな》ぎ繋がる物語。
春はどこから来るのやら。秋はどっちへ行くのやら。
毎年《まいとし》毎年花が咲き、毎年毎年葉をふるう。
昔ながらの世の不思議、今眼の前に現われて、
眼は見え耳はきこえても、手足は軽く動いても、
昨日《きのう》為《し》た事今日忘れ、先刻《さっき》した事今忘れ、
自分の事も他事《ひとごと》も、忘れ忘れていつ迄も、
限りない年生き延びた、聞こえ聾《つんぼ》の見え盲目《めくら》。
不思議な王の知ろし召《め》す、奇妙な国の物語。
昔々のその昔、世界に生きたものが無く、
只《ただ》岩山と濁《にご》り海、真暗闇《まっくらやみ》のその中《うち》に、
或る火の山の神様と、ある湖の神様と、
二人の間に生れ出た、たった一人の大男。
金剛石の骨組に、肉と爪とは大理石。
黒曜石の髪の毛に、肌は水晶血は紅玉《ルビー》。
岩角ばかりで敷き詰めた、広い曠野《あれの》の真中で、
大の字|形《なり》の仰向《あおむ》けに、何万年と寝ていたが、
或る時天の向うから、大きな星が飛んで来て、
寝てる男の横腹へ、ドシンとばかりぶつかった。
男はウンと云いながら、青玉の眼を見開いて、
どこが果ともわからない、暗《やみ》の大空見上ぐれば、
左の眼からは日の光り、右の眼からは月の影、
金と銀とに輝やいて、二ツ並んで浮み出し、
一ツは昼の国に照り、一ツは夜の国に行く。
瞬《まばた》きすれば星となり、呼吸をすれば風となり、
嚏《くしゃみ》をすれば雷《らい》となり、欠伸《あくび》をすれば雲となる。
男はやがてむっくりと、山より大きな身を起し、
ずっと周囲《まわり》を見まわせば、四方《あたり》は岩と土ばかり。
もとより生きた者とては、艸《くさ》一本も生えて無い。
男はあまりの淋しさに、オーイオーイと呼んで見た。
けれどもあたりに一人《いちにん》も、人間らしい影も無く、
大石小石の果も無い、世界に自分は唯一人。
青い空には雲が湧く。幾個《いくつ》も幾個も連れ立って、
さも楽し気に西へ行く。けれども自分は唯一人。
黒い海には波が立つ。仲よく並んでやって来て、
岸に砕けて遊んでる。けれども自分は唯一人。
もとより不思議の大男。家《うち》も着物も喰べ物も、
何んにも要らぬ身ながらに、相手といっては人間や、
鳥や獣《けもの》はまだ愚か、艸《くさ》一本も眼に入らぬ、
広い野原の恐ろしさ。石の野原の凄《すさま》じさ。
折角生れて来たものの、話し相手も何も無い
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