皆|正午《ひる》までに最上等の分を調えておくように申し付けまして、今度は王城の西の方に向って馬を飛ばせました。どこへ行くのかと思うと、やがて美留藻は紅矢の家を尋ね当てまして、大胆にも表門から駈け込みましたが、馬から降りると直ぐに玄関に駈け寄って、その石段の上に伏し倒れて、悲し気な声で家《うち》の者を呼びました。
 家《うち》の者は、紅矢が昨日《きのう》旅から帰ると、直ぐに王宮へ行って、又王宮を飛び出して、「瞬」に騎《の》って王宮の周囲《まわり》を七遍も駈けまわって、そのまま昨夜《ゆうべ》の内に行衛《ゆくえ》が知れずになったという噂を聞きまして、薩張《さっぱ》り理由《わけ》が解らず、もしや王様から大層な急用でも仰せ付かったのではあるまいか。それとも帰り途に散歩に行って、大怪我でもしたのではあるまいかと、大層気を揉んでいるところでしたが、この声を聞くや否や皆一時に、素破《すわ》こそと胸を轟かして玄関に駈け付けて見ますと、こは如何《いか》に。
 紅矢は余程の大怪我をしたものと見えて、顔中繃帯をして、呼吸《いき》を機《はず》ませて倒おれております。この体《てい》を見た両親や、その他の者の驚きは一通りでありませんでした。直ぐに大勢で紅矢の寝床へ担《かつ》ぎ込《こ》みましたが、生憎な時は仕方のないもので、この家《うち》のお抱えの医者は、二三日前から遠方の山奥へ薬になる艸《くさ》や石を採りに行った留守で、とても一月や二月で帰って来る気遣いはなく、今の間《ま》には勿論《もちろん》合いませんでしたから、仕方なしに宮中のお抱えの青眼先生の処へ使いを立てて、大急ぎで御出《おい》で下さるようにと頼みました。丁度青眼先生は藍丸王のお叱りをうけて家に引き籠もっているところでしたが、紅矢が怪我をしたと聞くと直ぐに承知をしまして、薬を取り揃えて出かけました。
 青眼先生が来る迄に、美留藻の似せ紅矢は鋭く眼を配って、家《うち》の中の様子を見ますと、案の定この家の中に居る人々は、この間自分が夢の中で見た、美留楼《みるろう》公爵の家の人々にそっくりで、声までも少しも違いませぬ。美留藻は吾《わ》れながら眼の前の不思議に、今更に驚いてしまいましたが、又気を取り直しまして、それではこの家の末娘の美紅というのが、いよいよ自分と同じ夢を見て、吾れと吾が身を疑っているのに違いない。そうしてその姉の濃紅姫は、自分と一所に王様の前にお眼見得《めみえ》に出るとの事、念のため今一度、二人の顔を見ておきたいと、なおもよく気を付けて眼を配っていますと、この時|姉妹《あねいもうと》の二人は、兄の怪我を気遣いながら、両親の身体《からだ》の間から涙ぐんだ顔を出して、一心に様子を見ておりましたが、やがて美留藻が二人の顔を見付けて、繃帯の中からじっと眼をつけますと、二人は悲しさと恐ろしさに堪え切れないで、顔に手を当ててこの室《へや》を出てしまいました。
 あとを見送った美留藻は、ほっと深い溜め息をしました。美紅姫の姿の美しくて気高い事。湖の底の鏡の中で見た自分の姿に、一分一厘違わぬばかりでなく、ずっと清らかに神々《こうごう》しく見えたからで御座います。又姉の濃紅姫の方は、流石《さすが》に紅矢が自慢するだけあって、本当に温柔《おとな》しく優しいには違いありませぬが、併しその美しさは迚《とて》も妹の美紅や、又は美留藻自身の美しさとは比べものにならないと思いましたから、これならば自分と一所に藍丸王様の御前にお目見得に出ても、決して負けるような事はないと安心をしました。
 けれどもとにかくこの家の人々は、この間の夢の中で、美留女姫の両親や兄妹《きょうだい》となった人々で、しかもその末娘の美紅姫は、矢張り自分と同じように、美留女姫になった夢を見たのみならず、不思議にも自分と少しも違わぬ姿を持っているのですから、もしかすると美紅姫の方が本当の美留女姫の生れ変りで、自分が女王になるというのは嘘かも知れないと思いました。もしこの美紅姫があの夢を本当にして、女王になろうとでも思ったならばそれこそ大変で、折角自分が骨を折って、本当の事にしようと思っているあの夢が、皆嘘になって仕舞いますから、最早《もはや》一寸《ちょっと》も油断がなりませぬ。これは何でもこの美紅姫を亡《な》いものにして、出来る事ならあの夢の事を知っているものは皆息の根を止めてしまわなければ、自分は一寸の間も安心して眠る事は出来ない。そうしなければあの夢のために自分に向いて来た幸福《しあわせ》を、自分一人占めにする事は出来ないのだと、恐ろしい覚悟を定《き》めてしまいました。けれども紅木公爵も公爵夫人も、こんな悪い女が似せ紅矢となって、今眼の前に寝ていようとは夢にも知りませぬ。只思いもかけぬ吾が児の大怪我に気も狂う程驚き慌てまして、一体どうしてこんな事になったのかと言葉を揃えて尋ねました。
 似せ紅矢の美留藻はこの言葉を待ちかねて、紅矢の声色を使いまして、さも苦しそうな呼吸《いき》の下から、「何卒《どうぞ》皆の者を遠ざけて下さい。只御両親だけ御残り下さい。他人に聞かれてはよくない事で御座いますから」と申しました。そうして両親と差し向いになりますと、美留藻はさも痛々し気に床の上に起き直りまして、両手を支《つか》えて、繃帯の間から涙をポロポロと落して見せました。
 両親は益々驚き周章《あわ》てまして左右から、
「お前はどうしたのだ。訳を云わずに泣いたとて訳が解からんではないか。どういう訳で涙を流すのだ。これ。紅矢。早く聞かせてくれ。心配で堪《たま》らない。ええ、紅矢」
 と問い詰めました。この様子を見て美留藻は、先《ま》ず占《し》めた、両親は飽《あ》くまで自分を紅矢と思っていると安心しました。そしてなおも弱り切った声で――
「実は私は御両親に今日只今まで、固く御隠し申していた事が御座います。けれども最早|斯様《かよう》になりましては到底《とても》御隠し申す訳に参りませぬ故、すっかりお話し致します」
 と申しましたが、これから濃紅姫が王様をお慕い申し上げていた事を初めとして、今度王様が御自身で濃紅姫を妃に迎える約束を遊ばしながら、又御自身でその約束をお破り遊ばした上に、今から一週間の後《のち》に他《た》の女と一所にお目見得に出せと仰せられた事、自分は余りの切なさに夢中になって「瞬」に乗って駈け出した事、それからその夜《よ》の内に多留美の湖の傍まで行って帰りがけ、只《と》ある橋の上で馬が躓《つまず》いたために落ちて怪我をした事など、有る事無い事、紅矢から聞いた話に添えて、詳しく話して聞かせました。
 両親は聞く事毎に驚く事ばかりでした。そうして事情《わけ》はすっかり解かりましたが、その中で濃紅姫を他の女と一所にお目見得に出す事だけはあまりに情ない浅ましい事で、殊に都合よく御妃になる事が出来れば兎も角も、もし間違って王様の御気に入らないような事があると、これ位|恥辱《はじ》な事はないからと云って、両親は容易《たやす》く承知致しませんでした。
 併し美留藻の似せ紅矢はここが大切なところと思いまして、一生懸命になって濃紅姫の容色《きりょう》を賞め千切って、仮令《たとい》どんな女が来ても妹以上に美しい女は居ないから大丈夫だ。それに藍丸王様も今は濃紅姫の美しさをお忘れになったから、あのような菅無《すげな》い事を仰せられたのであろう。けれども又今度御覧になれば、屹度昔のように御気に入るに違いない。そしてもし濃紅姫がお目見得に出ないために、他の賤《いや》しい女がお妃になるような事になると、かえって王様に対して恐れ多い事になる。だから濃紅姫が今度のお目見得に出るという事は、十方八方のために大層都合のよい大切な事で御座いますと、さも苦しそうな呼吸《いき》の下からあらん限りの言葉を尽して勧めました。
 両親も聞いて見れば成る程|道理《もっとも》ですから、一つは濃紅姫の可愛さと親の贔負目《ひいきめ》で、やっとの事それに定《き》めて両親揃って濃紅姫の室《へや》へ相談に出かけました。
 そのあとへ青眼先生が、女中の案内を受けて大急ぎで遣って参りました。先生は今まで宮中より他にはどこにも行った事がなく、この家に来たのはこれが初めてで、宮中に来る紅木大臣と紅矢の他は一度も会った事のない人ばかりでしたから、一々皆に叮嚀に挨拶を致しましたが、只美紅姫だけは自分の室《へや》に隠れていて、姉様《ねえさま》の濃紅姫が呼んでも出て来ませんでした。
 美紅姫は青眼先生が来たと云う声を聞くや否や、もしやあの夢の中の怖いお爺さんではあるまいかと思ったので御座います。そうしてもしそうなれば、今の自分の身の上はどこからが夢でどこからが本当だかいよいよ解からなくなる。いよいよ不思議に恐ろしくなる。何にしても青眼先生という人が、あのお爺様かどうか見て見なければわからないと思いました。けれどももし真正面《まとも》に顔を合わせて、又悪魔と間違えられでもしては大変と思いましたから、そっと扉に隙間を作ってそこからそっと眼ばかり出して様子を見ておりました。
 その前を通る青眼先生の顔を一眼見ると、美紅姫は思わずアッと声を立てるところでした。その肩まで垂れた青い髪毛《かみのけ》、その青くて鋭い眼付、青い髯《ひげ》、黒い顔色、そうしてその黄色い着物、皆あの夢の中のお爺さんにそっくりそのままで、歩きぶりまで違ったところはありません。美紅姫は恐ろしさの余り身体《からだ》中の血が凍ったように思いました。
 そうして慌てて扉を閉じて、内側から鍵をしっかりとかけて、ほっと一息安心すると、そのまま気が遠くなって、床の上に倒れてしまいました。けれども家中は今、上を下へと混雑しているところでしたから、気の付く者は一人もありませんでした。
 ところが似せ紅矢の美留藻も青眼先生の顔を見ると、同じように慄《ふる》え上る程驚きました。そうしていよいよあの夢が嘘でない事が解かりましたが、それと一所に青眼先生の眼付が如何《いか》にも鋭くて、もしやあの夢の中であの銀杏《いちょう》の葉を容《い》れた袋の底を鋏《はさみ》で切り破った女が自分だという事が繃帯の上からわかりはしまいかと心の中《うち》で恐れた位でした。けれども又よく考えて見ると、青眼先生がもしあの美紅姫を一眼でも見ていれば、妾《わたし》より先に姫を疑う筈なのに平気でこの家に遣って来るところを見ると、青眼先生はこの家に初めて来たので、まだ美紅姫の顔を見た事がないのかもしれぬ。それとも初めからあの夢を見ないのであろうか。イヤイヤそんな筈はない。美紅姫があの夢を見たように、この青眼先生も、それからあの白髪の乞食小僧も屹度あの夢を見たに違いない。それでなければ理屈が合わなくなる。そしていよいよ見たか見ないかは、そのうちに美紅姫とこの青眼先生と出会わして見ればわかる事だ。とにかく今のところではこの青眼先生はまだ一度も美紅姫と顔を合わせず、又自分が似せ紅矢という事も気が付かずにいるに違いないと、ほっと安心をして気を落ち付けました。
 けれども青眼先生の方はそんな事は露程も気が付きませぬ。徐《しずか》に進み寄って美留藻の似せ紅矢に敬礼をしまして、それから先ず脈を見ましたが何ともないので、これならば死ぬような事はあるまいと安心をしました。ところがその次に顔の繃帯を取ろうとしますと、似せ紅矢は無暗に痛い痛いと金切声をふり絞って、どうしても繃帯に触らせませぬ。青眼先生は仕方なしに、薬籠の中から油薬を出して、繃帯一面に浸《し》ませて、こうやっておけば直《すぐ》に痛くないように繃帯が取れるであろう。それからこの薬は一滴程|嘗《な》めておくと一週間眠り続ける事が出来る薬だ。その間には大抵痛みも取れるであろうから、あとであまり痛みが烈しいならば、飲ましておくがよいと云って、小さな瓶《びん》を一ツ病人の枕元に置いて行きました。
 青眼先生が帰ってから暫くの間、美留藻は痛みが取れたように見せかけてスヤスヤと眠っておりました。ところがやがて正午《ひる》頃になって、看病のために残っていた女中が一寸の間居なくなりますと、美留
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