婦に、今夜からは自分一人で夜伽《よとぎ》をして、悪魔の正体を見届けたいから、何卒《どうぞ》自分に任せて下さるようにと熱心に願いました。両親はこの頼もしい青眼先生の言葉を聞きますと、何で否《いな》やを申しましょう。直ぐに承知を致しまして、青眼先生を只一人この室《へや》に残して引き取りましたが、なお念のため家の周囲《まわり》には、力の強い勇気のある家来を大勢配って、油断なく見張らせるようにしました。
 青眼先生は、室《へや》の中に一人も居なくなりますと、やおら立ち上ってそこらを見まわしましたが、この室は扉を締めておきさえすれば、あとは只窓一ツしか無く、他に出入りする処はありませんから、悪魔は屹度あの窓から這入って来たに違いないと思いました。青眼先生はこれを見定めて、なおもその窓の外をよく見ようと思って、不図窓の縁に手をかけますと、その隅の処に妙なものを見つけました。それは三粒の美しい紅玉《ルビー》でした。
 青眼先生はこの世の中にありとあらゆるもので知らぬものは無く、殊に宝石の事は詳しく知っていましたから、この三粒の紅玉《ルビー》を一目見ると、直ぐに、これは世にも稀《まれ》な上等飛び切りの紅玉《ルビー》で、当り前の者が持っているものではないと思いましたが、扨《さて》誰が何のためにこんな処に置いているかという事は全くわかりませんでした。只《ただ》もしかすると、これは悪魔が何かのためにした悪戯《いたずら》かも知れぬ。それならばなるべくいじらぬ方がよいと思って、そっくりそのままにしておきました。
 その中《うち》に夜はだんだん更《ふ》けて来ましたから、青眼先生は眠られぬ薬を飲みまして、只一人紅矢の枕元に椅子を引き寄せて座りました。そうしてその懐中《ふところ》には、悪魔を見たらば直ぐにも注ぎかけるために、別に一ツの薬瓶を用意して、その夜《よ》夜通しまんじりとも為《せ》ずに過ごしました。その薬は一寸でも身体《からだ》にかかると、直ぐに身体《からだ》中の血が氷になってしまうという恐ろしい毒薬でした。けれどもその夜は何事も無くて済みました。その次の夜《よ》も次の夜《よ》も無事に明けました。いよいよ明日《あす》は宮中でお目見得の式があるという晩になると、その間|家《うち》中は濃紅姫の身支度で大変な騒ぎで御座いましたが、すっかり支度が済みますと、姫はこの家の一番の奥の石の神様を祭ってある大広間の真中に、寝台《ねだい》を置いてその上に寝かされて、その周囲《まわり》には四人の家来が代り番に寝ずの番をしておりました。これは姫の身体《からだ》に万一の事が無い用心です。
 両親はこの様子を見て安心をして自分の室《へや》に引き取りました。美紅姫もその枕元に来て――
「お姉様、お寝《やす》み遊ばしまし」
 と云って、あとを見返り見返り出て行きましたが、その顔は云うに云われぬ悲しさに満ち満ちていました。これを見ると濃紅姫は――
「ああ、美紅姫と一所にこの家《うち》で眠《ね》るのもこれがおしまいになるかもしれぬ。美紅はそれで泣いているのであろう。何という悲しい事であろう」
 と思いながら美事な香木で作った格天井《ごうてんじょう》を見ていましたが、熱い熱い涙が自《おの》ずと眼の中に溢れて、左右にわかれて流れ落ちました。その時にこの広い宮中はひっそりと静まり返って、針の落ちる音までも聞こえる位でした。
 この時青眼先生は只一人紅矢の枕元に座って、毒薬の瓶《びん》を懐《ふところ》に入れたまま、最早《もう》悪魔が来るか来るかと待っていました。けれども夜中過ぎまでは何事も無く、只紅矢の苦しい呼吸の音が、夜の更けると一所に静まって行くばかりでした。ところが真夜中が過ぎて、やがて夜が明けようかと思わるる頃になりますと、庭のどこからか歌を唄う女の美しい声が聞こえて来ました。
「紅矢は顔を見た。
 悪魔の顔を見た。
 悪魔の顔を見たものは
 殺されるのが当り前。

 妾《あたし》は悪魔。妾は悪魔。
 屹度紅矢を殺すぞよ」
 その声は、青眼先生がどこかで一度聞いた事のある声のように思いましたが、この時はどうしても思い出せませんでした。この声を聞き付けますと、紅矢は忽ち眼を見開き、頭を擡《もた》げて――
「あの声。あの声。悪魔のこえ。妹の美紅の声」
 と叫びました。
 青眼先生は直ぐに窓から飛び出して、声のする方に駈け出しました。そうして片手を罎《びん》の栓へかけて、出会い頭《がしら》に毒薬をふりかけてくれようと、血眼《ちまなこ》で駈けまわりましたが、不思議や悪魔はどこへ行ったか影も形も無く、只|霜風《しもかぜ》が身を切るように冷たくて、大空には星の光りが降るように輝いているばかりでした。
 青眼先生は何だか狐に抓《つま》まれたような気がして、呆然《ぼんやり》と立っていました。けれどもそ
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