かった。
 先生が私服に着かえて出て来ると、記者は改めて職業と名前を名乗って用件を話し出した。ABCの一件からMの字の秘密なぞをザッと述べて、もっと詳しくお話を承わりたいと云った。
 田宮氏は顔色をかえて狼狽した。奥さんと不安そうな顔を見合わせた。しかし最後には、青白い顔を心持ち赤くしながらオズオズと云った。
「そんな事を云っておりましたか。どうも困りますので……実は最前の生徒の父兄に、こんな事があると話しておりましたのを、蔭から聴いたものと見えます。しかし、そんなに詳しくは話しておりませんので……実は私も直接にきいたわけでは御座いません。永年家庭教師をやっておりますうちに、又聞きや何かでききまして……参考にもなりますし……つい興味を持ちまして調べましたので……」
 聴いている記者の胸は躍った。
「あなたの御職業を信じてお話し致しますが……御参考になりますかどうか……」
 と田宮先生が話し出した事は、ABCの話かと思ったら、これこそ又意外千万の話であった。記者はその話が次第に脱線して行くのを止める事が出来なかった。
 震災前、SSS団という団体が某私立中学に出来ていた。Sというのはエスケープの略語、即ち学校をなまける事で、日本の学生特有の読み方である。それを米国のKKK団、又はIWW団の真似をしてSSSとしたのであったが、この時まではまだ不良と名づける程の仕事もしていなかった。活動見物とか、カフェーの只飲み、喰い逃げ、付け文位が関の山であった。しかしそのSSSへ不良青年がまじるようになると、いつの間にか仕事が著しい不良性を帯びて来た。同時に文房具にSSSというのが出来たので、改めてSMSと改名した。
「このMという字が問題です。元来日本の学生は外国の文字に勝手な意味をつけるので、漢字でもそうだそうですが、Bの字を臀部の恰好に考えたり、IWを色女なぞと読んで見たり、実にどうも……」
 と先生は茶を飲んだ。
 この流儀でSMSは、Mの字を男性のあるもの、Sを少年の意味に使って、SMSというと或る怪《け》しからぬ行いを仕事にする団体という意味にしたものであった。無論、かなり堕落した学生ででもなければ、そんな意味はつけ得なかったのである。
 その中《うち》にSMS団はMMM団と改称された。Mの字の意義が高潮して女の方にも関係するようになった事が、この改称に依て察せられる。
 その中《うち》に又、MMMが飽かれたかして、後《のち》には単に「享楽団」と呼ばれるようになった。
 その時に地震が来た。
 ところで、彼《か》の大地震で引っくり返ったものは単に家ばかりではなかった。
 男性の享楽団MMMも引っくり返ってWWW団となった。但、そんな名前が出来たわけではない。MMMが地震と共に音も沙汰もなくなって、その代りに少女ばかりで組織された享楽団なるものが現われたのであった。
 その途中の経過としてMWWとか何とかいった時代があったかどうかわからぬが、男の享楽団の名は消え失せたらしく、どこの家庭にも、Mよりとか、Sよりとかいう名前の手紙が来たという事を聴かなくなった。
 同時に、その享楽団の団長は一人の私立高女の上級生で、その団長の指揮に依ってその団員は盛に享楽事業を拡張しているという噂が、どことなく耳寄りの人に耳寄って来た。
 その不良少女享楽団長の名前を聴くと、記者は思わず膝を打った。
「ああ、あれですか」
 と声を出した。
 田宮先生は面喰らったらしかった。
「あなたは御存じで……」
「イヤ、一寸聞いた事があるのです。一高生にカルメンと呼ばれて持てはやされている和田(仮名)の事でしょう」
「さあ、名前は同じですが、同じ人間ですかどうですか。私共の仲間では、何故あの女を放校しないのでしょうと云っていますがね」
「ヘエ、そんなに有名なのですか」
「あの女学校で知らぬ生徒は恐らくありますまい。皆名前は云わずに団長団長と云っている位です」
「一体、団長ってどんな仕事をしているのでしょう」
「さあ……何でも中学生や高等学校生徒を誘惑するのが上手だと云いますがね。エー、あと月だったかね(と夫人をかえり見て)、私の学校の生徒の中から二人ばかり連れ出して、或る珈琲店へ這入って、今夜上野で望遠鏡で月を見る会があるからと、いろいろ面白い話をしたそうです。少年は二人共本当にして、誘い合わして行こうとしたのを、一方の親御さんが気付かれて止められたそうですが……上野にそんな会があったかどうか存じませぬが、話上手は事実らしいのです」
「ヘエ、先生はよく詳しく御存じですな……」
 と云いさして、これは失礼と思ったが、果して田宮氏は赤面した。
「ハイ……その、実は私の同窓がその女学校におりますので……実は貴方の御職業を信じてお話し致しますわけで御座いますが……必ず御内分に願いたいので御座いますが……」
 記者はこのほかに二三、田宮夫人からの話をきいて引上げた。
 心から感謝の辞を述べて……。

     不良少女享楽団長

 ××女学校の名は日本中に響いている。畏《かしこ》きあたりの御おぼえ目出度い某名流夫人が創立して以来数十年、今年の某月某日、やんごとなき方々の台臨を仰いだ程の学校である。七百余人のお嬢さんに一定の制服を着せて、頭髪《かみ》の結び方まで八釜しく云っている。設備の完備している事は東都の私立女学校でも有数である。
 その上級生に和田(仮名)という生徒が居る。
 背丈けはあまり高くなく、どちらかと云えば痩ギスで面長である。心持ち眼が下がっているのと、眉毛の細くて長いのが特徴といえば特徴であるが、鼻は尋常である。全体に美人《シャン》という程でもなく不美人《ウンシャン》という程でもない。只平凡な可愛い顔である。
 陸軍中将か何かの未亡人の独り子で、学校の成績は中位、持ち物や髪の結い方等も質素だから、大勢の中に居ると一寸探し出し難い位である。
 しかし、彼女の行動を見ると、不思議に思われる事がいくつも出て来る。
 第一、彼女の顔は極めて平凡で、これという特徴は一つも無いが、一度見たら永久に忘れられぬ程印象が深い。相手の心に何物かを遺さねば措かぬといったような気味合いがある。これは同窓の生徒同志でも不思議がっている事である。
 彼女は平凡な顔でありながら、表情が極めて上手である。送別会とか何とかいう会合に出ると、あまり嫌みを見せずに盛に切ってまわす。一高生徒の会合なぞに臆面もなく乗り込んで、カルメンと持てはやされるというが、彼女以外にそんな大胆な手腕を揮い得る少女は滅多にあるまいと考えられる。
 彼女は全校の生徒七百の中《うち》二三十人の友達を持っているが、その友達との交際振りがまた一種特別である。どんな事かわからぬが、彼女の命令に従う少女を彼女は手を尽して可愛がる。これに反して、彼女の命令に従わぬ少女は、自分の持ち物を持たせたり何かして、云うに云われぬ虐待をする。だから彼女の友達は彼女の思い通りにかわって行く。
 彼女の学校の帰り途を知っているものは一人も無い。昨日《きのう》は西、今日は東と、まるで方向違いの道をどこへか消えて行く。全くどこへ行くのかわからぬ。
 彼女は丸い、黒い、径二寸位の化粧箱を持っている。中には頬紅と白粉《おしろい》が這入っている。頗るハイカラなもので、一個九円である。某化粧品屋の特製とかで(この間福岡の新道《しんみち》で只一個見かけたが、価格は四円五十銭と云った。安くなったと見える。しかも、その後二三日して行って見たら売れていた)、あまり方々で売っていない。これは東京随一の不良少女享楽団が全部揃いで持っているもので、どこかに合印《あいじるし》か何かあるらしいがハッキリとわからない。
 彼女のこうした振舞は、いつの間にか学校生徒の大部分に知られてしまっている。誰も彼女の本名を呼ぶものはない。「団長」とか「団長さん」とか蔭で云って敬遠している。
 彼女が支配している享楽団の性質を探って見ると、更に奇怪なことが多い、
 第一、享楽団という名前が随分古くからあるが、これは仮りにその団体の正体を指した通り名で、実際は始終名前を換えているらしく、何を目標に、どこで会合しているのか、記者の力では探り得なかった。彼女はいつも一人で、いろんな男の学校の生徒の会合、慈善市、又は東京市内の方々で催される展覧会、その他あらゆる会合に関係をつけて出席しては、気の利いた社交振りを見せているが、彼女の助手や部下がその裡面でどんな活躍をしているかは露程も感付かせぬ。彼女から、自分の身元の何から何まで探られていながら、気付かぬ男が随分多いという。
 彼女はそんな方面に素晴らしく明晰な頭脳を持っているらしい。
 彼女の支配する不良少女の団体は水も洩らさぬ活躍ぶりを示すが、その仕組みは皆彼女の胸三寸から出るらしく、彼女以外の団員の姿は一人も見えない。いつも彼女は一人ぼっちの少女のように見える。
 享楽団というのは、名の通り少女達が男性を誘惑して享楽する団体で、それ以外の事は何もしないらしい。只、その仕事が組織的にキビキビしているために有力な不良少女団と認められている。その組織の中心はいつも彼女である。彼女は片っ端から少女を誘惑して団員とし、一方から望み次第に若い男性を引っぱって来てその少女に宛がって享楽させる。しかも彼女自身は割りにその方面に超然としているらしく、さればといっていい人があるようにも見えぬ。
 どちらかと云えば八方美人にも見えるし、一種の変態性欲主義者ではないかと思われる。又は、そうした悪魔的の仕事その物の興味に満足しているに過ぎぬのではないかと思われる節もある。
 ――そこが彼女の凄いところだ――彼女の血色、表情、身体《からだ》のこなし等から見て、彼女は恐ろしい男喰いとしか思えない――彼女は自分の不行跡を蔽い隠すために享楽団を作っているのだ――享楽団員は彼女のお下りを頂戴して、彼女の享楽の後始末をつけてやっているのだ――そこに彼女の表情上手な性格から来た極端な社交性と、その深刻な個人主義とが生きているのだ――。
 ――と反駁する人があれば、記者は否定する材料を一つも持たない。
 彼女の団体は他の不良少年団と協力して悪い事をするとの噂もある。しかし、彼女の怜悧さ、警戒心の強さ、又はそのプライドの高さから見て、そんな事は有り得まいと思う。
   ……………………
 記者はこれだけの材料を集めると、もう一歩も進み得なくなった。いろいろと考えた揚句、警視庁に出かけて彼女の事を暗示して見た。しかし、警視庁の二三の人は、そんな真面目な学校に、そんな生徒が居られるだろうかというような、疑いの眼付きで記者を見た。却《かえっ》て震災後のいろんな犯罪の統計や報告を作るのに忙しいように見えた。
 記者は失望して引き退った。その翌々日、「東京全部」に見切りをつけて郷里へ帰ってしまった。
 因《ちなみ》に、去る二月頃、東京で捕まった不良少年少女の一団の中には、彼女の名は無かった。彼女はもう無事に卒業しているかも知れぬ。
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   結論



     東京人の堕落に対する各方面の驚きの声

 以上は、東京人の堕落に就いて見聞した事実の概要である。誇張されたらしい噂や誤聞を避けたため、材料が不徹底に感ぜられたところもあったろう。又は、書いているうちに旧聞になって、読者のお笑い草になった箇所もあったろう。
 併《しか》し同時に、本紙がこの稿の過半を掲載し終えた頃から、東京の各方面に於て、「東京人の堕落」に関する驚きの声が俄然として起り始めた事は、予期していた事とはいえ、記者の報道が如実に裏書された点に於て満足を感じないわけには行かなかった。
 同時に別の意味で、記者は頗《すこぶ》る不満に感じた点があった。それ等の報道の大部分が、東京の堕落を説明するのに、恰《あたか》も東京の「堕落の甚だしさ」を、恰も東京の「文化の向上した程度」を示す者であるかのように、寧《むし》ろ誇りかに叙している点であった。
 記者は明言する。
 東京人の堕落は東京の文化の向上を意味するも
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