もし一人が失敗と見たら、ほかの団友に渡す。こうして前後二段に攻め立てると、そこは人間の浅ましさで、大抵固い少年でも自惚《うぬぼ》れが出て来る。これが油断の始まりで、つい気がうきうきして、第二の女学生の手段に引入られて見たくなる。
又、第一の少女「何子さんの友より」とか何とか書いて、第二の少女から手紙を出すのがある。
「あなたのために何子さんは病気におなりになりました。どうぞ助けると思って……」
但、ここまで来るのはよほど手強いので、もっともっと手軽いのが最近の東京では普通だという。
往来で知らぬ少女に名刺を突つけて結婚を申込む男……又は見も知らぬ男に、
「あなたの理想の御婦人はどんなのでしょうか。参考のために是非お知らせ下さいませ」
と手紙を出す少女が居るという位だから……。
匙《さじ》を投げかけた記者
東京はこんな風に、大人の享楽主義の天国であるように、少年少女の花の都である。
牛込の神楽坂、渋谷の道玄坂、神田の神保町付近、本郷の湯島天神あたりの夜は、今でもそんな気分の「淀み」を作っている。
そうして、そんな処を摺り鉢の縁《ふち》とすると、底に当るのが銀座である。
その銀座が夜になると、来るわ来るわ、東京市に居る人で銀座散歩《ぎんぶら》を知らぬ人は余程の野暮天と笑われる位である。
色セメントや色ペンキで近代様式の数寄《すき》を凝らした家並み……意匠の変化を極めた飾窓……往来に漲る光りの洪水……どよめき渡る電車、自動車の響の中《うち》に、ささやき合い、うなずき合いつつ行く、華やかな「希望」や、あでやかな「幸福」の姿は、十分間も立ち止まっていれば、ガッカリする位眼の前を横切って行く。
どれが不良やら善良やら、見当が付きそうにも思えぬ。
しかし、記者はガッカリしなかった。そんな処を毎日うろついて、或る事を探ろうと試みた。或る事とは、不良少年少女の団体が、どんな風に活躍しているかという事であった。
しかし、それが又、片っ端から骨折り損になって行くのにはウンザリした。何一つ収穫なく、コーヒーで腹をダブダブにして、電車に揉まれて帰るのは全くイヤなものであった。
しまいには事実上殆ど匙を投げてしまった。
ところが――。
Mの字の売り切れ
ずっと前、東京市中の学生仲間に鳥打帽大流行の事を書いた。そんな材料を調べている最中の事であった。
神田の或る大きな帽子屋に、ちょっと気に入ったネクタイがあったから、這入って見ているうちに、一人の学生が這入って来た。
「Mって字、ありますか」
「Mは生憎《あいにく》売り切れまして、ほかの字では如何《いかが》で……」
と、番頭はボール箱を取り出した。中には、鳥打帽の前庇を止める、金文字付きの留針《ピン》がズラリと並んでいる。
「弱ったなあ。しようがないな、どこでも売り切れて」
と学生はボヤきながら、何文字か一つ買って行った。
記者は別に深い考えなしに、只一寸した好奇心に駆られて、その四十恰好の番頭にきいて見た。
「Mって字はどこでも売り切れかね」
「ヘエ。Mの字が一番よくお持ちになりますようで……」
「どこでもそうかね……」
「さあ……手前共では特別にMの字をよく仕入れますが、いくら仕入れましても無くなりますので……Mという頭字《かしらじ》の付くお名前の方が余計においでになるからでも御座いましょうか、エヘヘヘ」
「じゃ、一番売れないのは何の字だね」
「さあ……さようで御座いますね……LだのQだのは全く売れませぬので、最初から仕入れませぬが、そのほかで売れませぬのは……サア」
と、彼はピンを一渡り見渡した。
「只今残っておりますのはP、A、E、J、Y、X……」
「いや、どうも有難う」
記者は安ネクタイを一つ買ってそこを出た。
それから記者は、一町ばかり行く間に、Mという字が特別によく売れるわけを考えるともなく考えたが、とてもわかりそうにもないのでやめにした。
そんな事をすっかり忘れたまま、一週間ばかり過ぎた。
ABCの秘密
天気のいい午後であった。
秋の西日を背中に受けながら、記者は上野動物園の杉木立に這入った。
日当りのいい、人糞に遠い、という条件の処に一つの平石を見つけて、腰をかけて、杉の木に倚りかかりながら居ねむりを始めた。これは、そのころ記者に出来ていた習慣で、毎日是非一度やらなければ頭の工合がどうもよくなかった。女なら血の道とでもいうところであろう。
暫く舟を漕いでから、ウトウト眼を覚ましていると、うしろの大きな杉の幹の向う側の根元に、中学二年位の生徒が来て話を始めた。何でも紙片《かみきれ》か何かを開いて、一人が講釈をするのであった。子供の声で、おまけに誰も居ないと思っているのでよくわかる。
「いいかい、君。ABCの秘密ってんだよ」
「ウン。この鉛筆で書いたの、みんなそうかい」
「そうさ」
「驚いたな。君、書いたのかい」
「ウン。兄貴のを写したのさ」
「兄さんもきいたのかい」
「ウン、一緒さ。……いいかい。Aは第一の恋人《ラバー》、Bが第二の恋人《ラバー》、Cが第三の恋人《ラバー》なんだよ。大人だとA子は奥様で、B子だのC子だのといったらお妾さんの事さ。面白いだろう」
「ウン。もっと云って見給え」
「それからBだのPだのはお屁《なら》のこと、Cは女が小便《シッコ》をする事」
「ウフン」
「Dはウンコの事。Eは知らぬ顔をする事」
「何故?」
「何故だか知らないけれど、そうなんだっさ。それからFはお嬢さんの事。Gは芸者の事。Hは散歩をするとか、ハイカラとかいう意味。Iはお眼にかかりたいとか、承知しましたとかいうんだっさ」
「変じゃないか、それあ」
「なぜ?」
「Iってなあ自分のことじゃないか、英語で……」
「そうじゃない。『アイタイ』っていう『アイ』じゃないか」
「勝手にこしらえたんじゃないかい」
「僕がかい」
「そうじゃない。君に教えた英語の先生が、いい加減に教えたんじゃないかい」
「どうだか知らないけど……まあ、聞いて見給え。Jは質屋の事、Kはブンナグル事。KKは仇討ち。KKKはストライキで……(此処不明)……Lは永久に忘れないって事。Mは男のMで、あべこべにすると女のWになるってんだ……」
「フフフフ、面白いね」
「……ね……それからMはABCの真ん中にあるから、神様だの、真ん中だの、秘密だの、意味がいろいろあるんだそうだ。Nは反対って意味、Oは嬉しいとか承知したとかいう意味。OMとくっつけると、MWとおんなじに変な事」
「フフフフフフ」
「PQと書くとお金が無いという意味、QPと書くと愛するってこと」
「フーン、QPって人形じゃないか」
「違うんだよ……それから、ラブレターの隅にQPと書いてあると、そこにキッスしなくちゃいけないんだっさ」
「おかしいね」
「おかしいんだよ……それからRは本気だっていう事、Sはエスだから知ってるだろう(課業を逃げる意味)。二つ寄せると女同志ラブする事だっさ。Tは金槌だからなぐられた事や叱られた事、Uは共鳴したり賛成する事。Vは駄目だの、おしまいっていう意味。Wは女の意味だの、女のアレ……」
「ウフフフフフフ」
「……だの奥様だのいう……」
「Aと同じだね」
「ウン。Xは疑問の事、Yは枕草紙だのあんなものの事、Zは脅迫だの、誘拐だの、泥棒だの、いくらも意味があってわかりにくいんだっさ」
「みんな、君の英語の先生が教えたのかい」
「ウン――まだこんなのを二つも三つも重ねると、まだいろんな面白い事があるけれど、君達が不良になるといけないからって、そう云ってやがったぜ」
「馬鹿にしてらあ。じゃ、今度習ったらいいじゃないか」
「だけど、おれあ彼奴《あいつ》嫌いさ。好色漢《すけべえ》だってえから……」
「誰が?」
「兄貴がそう云ったよ。兄貴はもっと習ったかも知れないけど……君、これを写さないかい」
「ウン、帰ってから写そう、貸し給え」
二人の少年は立ち上って、塵をハタキながら去った。
記者はノートを伏せて、彼等が見えなくなるまで見送った。
あの少年兄弟は教師に誘惑されているらしい――とその時思った――こんなつまらない事を教えてやると云って、生徒を誘惑する先生がよく居るからである。
こう考えると、アルファベットの秘密も何だかつまらなくなって来た。探偵小説の重大発見か何かのように、あの生徒の話をノートに取ったのが、無暗に馬鹿馬鹿しくなって来た。
それから四五日経った。
Mの字の秘密
記者がある老刑事さんを訪うて苦心談をきいていると、偶然こんな事を云い出した。
「この頃は学校生徒が無暗に鳥打帽を冠るので困るよ。変な事をやってる奴を押えても、出鱈目《でたらめ》の名前を云って困るんだ。和服ん時に名前が書いたるのは鳥打帽だが、大抵は英語の金文字一字ッキリだからしようがない。学校の名前だと吐かしア、それでもいいし、自分の名前だと云っても、そうかってなわけだからね。麦稈《ばっかん》帽や中折れだと、Wは大概早稲田だし、Kは慶応、Mは明治と学校の名前を使っているのが多い。鳥打帽でも昔のだとそうなんだが、この頃は全く出鱈目らしいね。その中《うち》でもMなんて字は、学校の名前だか自分の苗字だか見当が付かないね。医科大学がMだし、明治がそうだし、まだあるだろう。自分の名前にしても、松田だの、前田だの、村井だの、三井だの、何でもその場で云えるだろう。Rだの、Cってな、そんなわけに行かないからね。Mって字はだから便利な字さ」
「そんなら、Mの字をつけてる奴は大抵不良なんですね」
「アハハハハ。そんなわけじゃないがね。とにかく気をつけて見たまえ。Mの字を帽子につけてる奴が馬鹿に多いから。おれあ、どうも腑に落ちないと思っているんだがね……」
記者はこの最後の言葉にあまり注意を払わなかった。只、Mの字がよく売れることだけは間違いないと思っただけであった。
すると今度はその翌日の事……。
英語の先生の話
冷い雨の降る日――四谷から牛込へ帰る途中――飯田橋から新宿行の急行電車に乗り換えると――あの中学生――一週間余り前に、上野公園の杉の木蔭で、友達にアルファベットの秘密を教えた生徒が、偶然に記者の前に立っているのを発見した。
記者はニコニコして問うて見た。
「どこまで帰るのですか、君は」
彼はハニカミ笑いをしながら答えなかった。
「あなたの英語の先生は何といいますか」
これは頗《すこぶ》るまずい問い方であったが、ついそんな調子になってしまった。彼は矢張り答えなかったが、その代り意外の処から返事が来た。
「私ですが、何か御用ですか」
記者は驚いてふり返った。すぐうしろに一人の学校教師らしい四十恰好の人が立っている。あまり立派でない背広に中折れで、ゴムのコートを着て、ゴムの長靴を穿いている。背はあまり高くなく、強度の近眼鏡をかけた学者風の丸顔で、一見神経質の人らしく見える。好色漢《すけべえ》らしいところは微塵《みじん》もなく、却て記者を不良か何かと見たらしい顔付である。
記者は面喰らいながら帽子を脱いだ。
「ハイ、実はここではお話も出来かねる事で……」
と傍の少年をかえり見た。
先生は何と思ったか、急に物柔かな態度になった。
「ア……そうですか。では恐れ入りますが、私の宅までお出《いで》願われますまいか」
「それは恐縮ですが……」
「イヤ、お構いさえなければ……むさくるしい処ですが」
記者は風向きがあまり急に変ったので少々面喰らった。しかし兎《と》も角《かく》も、抜け弁天の付近にある先生の私宅まで、ザアザア降る中をお伴して行った。
その私宅というのは或る富豪の長屋で、少年はその家の三番目の令息であった。兄と一緒に(この日は何故かその兄と一緒でなかった)神田辺の或る中学に通っているので、その中学英語の先生田宮(仮名)はその家庭教師として長屋に居るのであった。ところが兄弟とも成績と品行があまりよくないので困っているらしい事が、田宮夫人のオシャベリでわ
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