事であった。
 神田の或る大きな帽子屋に、ちょっと気に入ったネクタイがあったから、這入って見ているうちに、一人の学生が這入って来た。
「Mって字、ありますか」
「Mは生憎《あいにく》売り切れまして、ほかの字では如何《いかが》で……」
 と、番頭はボール箱を取り出した。中には、鳥打帽の前庇を止める、金文字付きの留針《ピン》がズラリと並んでいる。
「弱ったなあ。しようがないな、どこでも売り切れて」
 と学生はボヤきながら、何文字か一つ買って行った。
 記者は別に深い考えなしに、只一寸した好奇心に駆られて、その四十恰好の番頭にきいて見た。
「Mって字はどこでも売り切れかね」
「ヘエ。Mの字が一番よくお持ちになりますようで……」
「どこでもそうかね……」
「さあ……手前共では特別にMの字をよく仕入れますが、いくら仕入れましても無くなりますので……Mという頭字《かしらじ》の付くお名前の方が余計においでになるからでも御座いましょうか、エヘヘヘ」
「じゃ、一番売れないのは何の字だね」
「さあ……さようで御座いますね……LだのQだのは全く売れませぬので、最初から仕入れませぬが、そのほかで売れませぬのは
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