来た。
彼等偉人たちは、すこし社会的に自由が利くようになると、ドシドシ堕落してしまった。豪《えら》い人間は皆、堕落していい特権があるような顔をして来た。えらいと云われる人間ほど、破倫、不道徳、不正をして来た。
それを世間の人間は嘆美崇拝した。そうして、そんな事の出来ない人間を蔑《さげす》み笑った。つまらない人間、淋しいみすぼらしい人間として冷笑した。
そんな堕落――不倫――放蕩――我儘をしたいために、世間の人々は一生懸命に働いているかのように見えた。
この有様を見た少年少女は、えらいという意味をそんな風に考えるようになった。成功というのは、そんな意味を含んでいるものと思うようになった。日本中の少年少女の人生観の中で、最も意義あり、力あり、光明ある部分は、こうして初めから穢《よご》された。その向上心の大部分は二葉《ふたば》の中《うち》から病毒に感染させられた。
彼等少年少女の心は暗くならざるを得なかった。その人生に対する煩悶と疑いは、いよいよ深くならねばならなかった。
今でもそうである――否、もっと甚だしいのである。
教育に対する少年少女の不平と反感
一方に、こうした彼等の悩みを、今日までの教育家はどんな風に指導して来たか。
現代の教育家は商売人である。
だからその人々の教育法は事なかれ主義である。
その説《と》くところ、指導するところは、昔の野《や》に在る教育家の、事あれ主義を目標にした修養論と違って、何等の生命をも含まぬものばかりであった。そうして、哲学や、宗教や、主義主張、又は血も涙も、人間性も……彼等少年少女の心に燃え上るもの一切を危険と認めて圧殺しようとする教育法は、あとからあとから生れて来る少年少女の不平と反感を買うに過ぎなかった。
彼等少年少女の向上心は、これ等の教育家の御蔭で次第次第に冷却された。現代の日本の教育家が尊重するものは、どれもこれもいやな不愉快なものと思われて来た。残るところは堕落した本能ばかりである。彼等少年少女は、そのような心をそそるものばかりを見たがり、聞きたがり、欲しがるよりほかに生きて行くところがなくなった。
幸いにして堕落しなかった者は、持って生れた用心深さや、気の弱さ、又は利害の勘定に明らかなために、只無意味にじっと我慢しているに過ぎない。
今から五六年前までの教育及社会対不良少年少女の
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