はとうの昔に上がってしまっている。維新を一段落として、今度の大地震を打ち止めとして、消え消えとなって行きつつある。
彼等のことを思うてここに到ると、思わず身うちがふるえるような気がする。
しかし尚《なお》最後に、彼等江戸ッ子の衰亡の原因が、こうした精神的方面からばかり来たものでないことを付け加えておきたい。彼等は人数の上から見ても、早かれ遅かれ亡びて行かねばならぬと考え得べき理由がある。
江戸ッ子の人口減少……何という悲惨な言葉であろう。このような事実を調べた人が前にあるかどうか知ら。記者は只いろんな方面から見て、この悲惨な言葉が事実上にあり得ることを疑い得なくなったのであるが、実に情ない恐ろしいような気がした。殊にその減少の事実とこれを裏書する原因が、どれもこれも深刻な或る意味のことばかりで、書くに忍びないような気がした。
しかし「新東京の裏面」を語るには、どうしてもこの点を明らめねばならぬ。しかもそれは、一面、文化人種滅亡の真原因とも見られるのであるから、思い切って書くことにした。
江戸ッ子減少の第一の事実は江戸ッ子に親類が少いということである。日比谷を初めとして東京市内各所の避難バラックに逃げ込んだ避難民の中で、江戸ッ子が一番多いに違いないという推測は、この事実からでも推測されることである。純粋の江戸ッ子……すなわち永年東京に居るもので、地方に親類を持っているものは極少数であるとは震災前から聴いたことであった。そんなのが昨年の変災後落ちて行く処が無くて、仕方なしに取りあえず避難バラックに逃げ込んだであろうということは、誰しも容易に想像が付く。又事実、避難バラックの住民に江戸ッ子が大多数を占めていることは、前記の通りである。
江戸ッ子に親類がすくないということは彼等の人口が殖えぬということで、結局、彼等の子を産む数が些《すく》ないということになる。この事は古い統計にも載っているそうで、江戸ッ子は只新しく仲間入りをする田舎者で補充されて、やっとその命脈を保って来たらしいことが朧気《おぼろげ》ながら推測される。
さもなくとも、一般に或人種が文化の絶頂に達すると人口が減少する、殊に永年都会に居て、文化的な神経過敏な生活を続けている者は、自然と産児が減少して行くものであることは、近頃の学問でよく問題になっている。東京ばかりでない、世界各国の都市がみんな間違いなくそうなって行くのだそうである。
潔癖から産児制限
都会人は何故繁殖力が減るか!
この疑問を学者たちに説明してもらうと大変な八釜《やかま》しいことになる。
第一は風俗の淫靡から来るものであるが、これは別としても都会人は減るのが当り前だそうである。
つまり、
▽土と日光と新しい空気と食物に遠ざかったもの
▽運動不足で精神過敏になったもの
は、人間でも動物でも、赤ん坊を生む数が減って行くと考えていればいいのだそうである。
或る人情哲学者はこれに付け加えて、
一|法螺《ほら》 二お世辞 三洒落
を喜ぶ真実味の些《すく》ない人間は、いつも魂が上付《うわつ》いているから充実した機能の満足を遂げ得ぬ、だから将来滅亡するようになると云ったが、少々乱暴な議論だけれども、そんなこともないとは限らぬであろう。
とにかく憐れむべき江戸ッ子はこれ等の資格をみんな備えている。彼等は江戸ッ子になった当初から、こうして呪われ続けていると云っていいのである。
しかも江戸ッ子の人口減少の原因はこればかりではないと考えられる。
或る智識階級の江戸ッ子はこんな話をした。
「江戸ッ子が減って行くってのは本当だろうよ。私の友人で子の無いものがある。妻君は江戸ッ子のチャキチャキで、健康状態にはすこしの申し分もなく、どんな医者に見せても子の出来ない筈はないと云う。自分自身も子の無いのを苦にして度々見せたが、同様の診断で、女の上を飛び越しても子が出来るかも知れぬと冷かされた。それでも子が出来ぬから、おかしいと思って気を付けて見ると、私の妻は非常な疳持ちで、尾籠《びろう》な話だが、事ある毎にそこを徹底的に洗うことに気がついた。これは医者が何と云うか知らぬが、子の出来ぬ唯一の原因と私は思う――とその男が云った。つまり江戸ッ子はあんまり潔癖だから子が出来ないのだね。だから江戸ッ子には親類がすくない訳だろう」
これは余りに江戸ッ子の早合点かも知れぬ。
又或る通人はこう云った。
「江戸は何でも日本一だが、遊びの場所も日本一であった。上は芳町、柳橋の芸者から松の位の太夫職、下は宿場の飯盛《めしもり》から湯屋女、辻君《つじぎみ》、夜鷹に到るまで、あらゆる階級の要求に応ずる設備が整っていた。そこへ以って来て、江戸ッ子は金離れがいいと来ているからたまらない。川柳に……三人で三分無くする知恵を出し……というのがあるが、その三分は三人持ち寄りの最後の財産であったろうと思われる。うちを空っぽにして遊ぶことばかり考えている……儲けた金で妻子を肥やすのをシミッタレと考えている心理状態がよくわかる。だから江戸ッ子のうちは繁昌しないのだ」
「江戸ッ子は道中をして帰って来ると、すぐに友達の処へ挨拶にまわる。その先から友達と一所に遊びに行って、道中の使い残しを空っぽにする。『久し振りうちに帰って、嬶《かかあ》珍らしさに出て来ない』と云われたくないために、こうした見得を張ったもので、詰るところ、こんな江戸ッ子の負け惜みが直接の産児制限となったわけだ。花柳病にかかって、間接に子種を亡ぼしたのは云う迄もないだろう」
又或る獣医はこんな話をした。
「牝馬で競馬に出る位の気の勝った馬は、いくら種をかけても決して子を生みません。原因はわかりませんが、一種の神経作用かも知れません。江戸ッ子の女は勝ち気だと云いますから、自然子を生みかねるのでしょう」
こんなのはいずれもうがち過ぎ、又は突飛な議論であるが、参考のため紹介しておく。勿論、いずれも一理屈あるのはあることである。
江戸を呪う隅田川
それはともかくとして、記者は江戸ッ子衰亡の事実を見たり、聞いたりする度毎に、あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に、記者は、この河に呪われて刻々に減って行く江戸ッ子の運命を思わずにはいられないのである。
「富士と筑波の山合《やまあい》に、流れも清き隅田川」
と奈良丸がうたい、
「向うは下総《しもうさ》葛飾郡、前を流るる大河は、雨さえ降るなら濁るるなれど、誰がつけたか隅田川ドンドン」
と昔|円車《えんしゃ》が歌った隅田川――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔も今も江戸ッ子の滅亡を呪うていようとは滅多に気が付く人はあるまい……と云うと、何だかエライ神秘的な由来でもありそうであるが、説明は頗《すこぶ》る簡単である。
隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、彼《か》の広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。
隅田川は昔から水ッ子の初まった処であった。
水ッ子と云っても、その中には堕胎《おろ》した児、生れてから殺した子、又は捨て児(これも結局は同じ事であるが)が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたわけのものでないが、江戸ッ子の人口減少の一半を引き受けたと認められているのだから恐ろしい。
隅田川はこんな残忍な、つめたい流れなのである。
但、この水ッ子の親は決して江戸ッ子に限っていなかったことを、ここに断っておかねばならぬ。
旧藩時代の武家は皆きまり切った縁をたよって、子孫代々まで暮さなければならなかった。三百年近く太平の世が続いたために、彼等の大部分は加増を受ける機会もなく、只夢のように生れては死んだ。只恐るるのは家族の殖えることであった。その結果が産児制限となったことは云うまでもない。
その次にはブル階級の江戸ッ子の風俗の堕落である。彼等が如何に奢《おご》りを極めたか、彼等の主人が如何に甚だしい道楽を試みたか、彼等の妻子や召し使いなぞが如何に風俗を乱したかは、江戸時代に現われた小説や芝居や絵を見てもわかる。その結果が忌まわしい手術、又は恐ろしい犯罪となって、幾万の生霊を暗《やみ》から暗《やみ》へ葬ったことであろうか。
その次は一般市民の生活難である。
前にも述べた通り、花の都の生存競争は生き馬の眼を抜く程激烈なものであった。その間に生存して行くのはとても生やさしいことではなかった。その結果、矢張り前のような恐ろしい習慣を、平気で行って行くよりほかに道が無い事は明らかである。
なおまたこのほかに問題にせねばならぬのは、徳川幕府が江戸に於ける軟文学の流行をそれとなく奨励したことである。幕府は、参覲交代で江戸に集まって来る諸国の武士を意気地なくするために、こんな方法を執《と》ったと伝えられているが、これが永い間の太平と共に上下一般に染み渡って、極度にまで人心を堕落さした事は実に非常なものであった。不義者に同情し、心中に共鳴し(これは大阪の方が本家かも知れぬが)、野合を讃美する芸術が流行し、上下の隔ても思案も度外視した恋愛至上主義が一般に崇拝された。
こうした「上下の隔てない」、又は「思案のほか」の花が結んだ因果の種はどうなったか。
田舎なら木の根や石の下、草原なぞの到るところに葬ることが出来るが、名にし負う土一升に金一升の都には、そんな余地は滅多にない。出入りの田舎者に頼んで情を明かしてことづけるほかは、とりあえず流れて行く水にことづけて、あとかたもなく葬ってもらうよりほかに仕方がなかったのであろう。
東京の中にはいくつも掘割がある。その橋や石垣、柳の下には隅田川から汐がさし引いている。この浄化作用は、こうした深刻な意味の巷の産物をも、不断に引き受けているのである。
群れ飛ぶ都鳥
隅田川が、その青黒い不可思議な力で、如何に江戸の住民に魅入っていたか。その川あかりが、如何に江戸ッ子を罪の子として堕落させて、秘密にその子孫を呪い殺していたか。
その事実を裏書するものはまだいくらでもある。
第一は徳川幕府が幾度も幾度も出した産児制限法の禁令である。これはおしまいまで無効に了《おわ》ったと認められているが、一面、このような禁令が度々出ただけ、それだけこの産児制限が烈しかったことを裏書しているのである。
事実、こうした江戸文華の裡面の秘密を握って、喰って行く商売人が非常に多かったのである。いろいろな随筆、わけても極《ごく》平凡な明るい意味で、「医を仁術」と心得ている医師たちの記録には、彼等の職業を極度に攻撃したものが些《すくな》くなかった。それにも拘わらず彼等は、「必要の前に善悪無し」という程度の格言を信条として、益《ますます》盛に横行したらしい。
その大部分は女医であったそうで、就中《なかんずく》中条流という堕胎の方法が最流行したと記録に残っている。そのほかおろし[#「おろし」に傍点]婆、御祈祷師なぞは勿論の事、普通の漢方医でも内々この医術を売り物にしていたと察せられる。一説に依ると、徳川時代のすべての医術の中で最も有効に発達したものはこの方法で、この方法の下手な医者は大家に出入りする資格は無かった。否、この手術だけ心得ていれば、あとは売薬を詰めた百味箪笥と、頭の形と、お太鼓持ちだけで、立派なお医者様として生活が出来たという位だから恐ろしい。
このほか医者でも何でもなくて、のれん[#「のれん」に傍点]や看板に堕胎を業とする意味のものを染めたり、描いたりしているものがあったという。たとえば子持縞《こもちじま》に錠を染め出すとか、温州の種なし[#「種なし」に傍点]みかんの絵とか、山吹の花を表したものなぞである。
そうした中でも、この種の商売を殆ど公然の秘密のように行
前へ
次へ
全20ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング