っていたのは、今でもある悪姙婦預り所であった。つまり女医や産婆の宅あずかりである。殊に面白い――といってはわるいが、その預り賃が七八ヶ月間最低一両内外で、上は限りなし、大家のお嬢さんなぞで間違いの出来たのが、よく乳母の里へ預かるなぞいうことが物の本にも出ているが、実はここに来て始末したのが多かったそうである。そうしてその流した子は、一朱内外を添えて、隅田川のほとり、本所《ほんじょ》の回向院《えこういん》へ収めたという事が書き添えられている。
しかしこのような冷酷な商売をする人非人が、果して約束通り残らず回向院へ納めたかどうか怪しいものである。これはその親に対するせめてもの気休めで、実は手軽く水に流したと考え得る理由が充分にある。
この種の例は深く立ち入ったらどれ位あるかわからぬが、ここでは「江戸ッ子減少」の原因を明らかにするだけに止めておく。そうした都会の真ん中を流るる河は、いつもこうした呪わしい、忌まわしい使命を持っていることを説明するに止めておく。
昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦《くろこげ》にした被服廠――。
その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
その岸に立つ回向院――。
それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。
……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力《すもう》や菊……扨《さて》は又、歌沢《うたざわ》の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳《まつち》山の雪見船、吉原通いの猪牙船《ちょきぶね》……群れ飛ぶ都鳥……。
両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である。
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建築交通の巻
現代式の新東京人
「江戸ッ子」はこうして亡びかけている。
山の手の智識階級も、下町のベランメイ党も、共々に昔の夢をなつかしみつつ影のように生き残っている。
そのあとへ新しい「江戸ッ子」、すなわち「現代式東京人」が寄り集まって「新東京の新生面」を作りつつある。
その新生面はどんな光彩《いろどり》を放っているか、どんな香霧《におい》を漂わしているか。
「バラック」という言葉は珍らしくなくなった。東京に行った人は飽きる程見ているように、バラック生活、バラック趣味、バラック的なぞといろんな熟語が出来て、バラック気分を天下に宣伝している。現在、その中で呼吸をしている新東京の住民なぞは、もうバラックという言葉までも忘れているらしい。
然るにバラックの中に居ながら、バラックの中に居る事を忘れている時は、バラック生活が苦にならなくなっている時である。魂までバラック式になっている時でなければならぬ。
新しい東京に来る人も何より先にバラックが眼につく。すべてがバラック式……派手で便利で手軽でハイカラで……といった調子で、「サスガ東京」とすっかり感化されてしまう。「新しい東京人」が出来上るといった順序である。
恐ろしいもので、こうして東京人の精神的生活の裏面には、チャンと「バラック」の感じが反映している。そうしてバラック式のリズムを作って、様々の悲喜劇を漂わし、いろいろな流行を移りかわらせている。
そこに吾が大和民族の新しい文化の中心の「におい」があり、色彩《いろどり》がある。
生れかわった彼女……「東京」は新しい「バラック」の着物を着てシャンシャンシャンとあるいて行く。どこへ行くのかわからぬが、如何にも得意そうで又嬉しそうである……が……扨《さて》……。
高い処に上って見ると、見渡す限りバラックの海である。青、赤、茶、白、黒、黄、紫、灰色なぞの屋根が、生地のトタン屋根と一所《いっしょ》に太陽の下に波を作って、焼け木の森に打ち寄せ、鉄橋を漂わせ、小山を這い上り、煙突を浮かせつつ、果ては銀灰色の空の下に煙のように消え込んでいる。その間に黒い枯木が散らばる、廃墟のような大建築が隠見する、煤煙が流れ、雲が渡り、鳶が舞い、飛行機が横切る。
震災後間もない去年九月十四日に撮った写真を見ると、一町内に二三軒|宛《ずつ》位の割合で建っていたのが、今では殆ど立ち塞がっていると云ってよかろう。黴菌《ばいきん》や虫ケラの力も恐ろしいが、人間の力もこうなるとエライものである。
「早いものですなあ」
とみんな挨拶のように云うが、実際挨拶に云っても差支えない位すさまじい早さである。
バラックの海を眺めて復興の力の偉大さに驚く人は、同時にその底を流るる活動力の清新さを感ずる人である。新しい板壁の反射や生々しいペンキの色は、そうした感じを象徴して際涯《はてし》もなく波打ち続いている。
一度|灰燼《かいじん》となった吾が大和民族の中央都市が、かような活力と元気とに依って溌溂と蘇らせられつつあるのを見ると、真に涙ぐましい程の心強さと嬉しさを感じさせられる。
併し又、バラックの眺望は一種の哀愁をも漂わしている。
昔の東京の眺めは何となく奥床しいところがあった。彼《か》の青黒く影絵のように並んだ屋根瓦の一つ一つにも、徳川から明治まで何百年かの歴史の重みが結び付いていた。云い表わし難い情緒が流れていた。
それが今のバラックにはない。その色の安っぽさ、毒々しさを通じて、只《ただ》生存競争、見かけばかりといったような、さもしい浅墓な気持ちしか感ぜられぬ。
しかしこれ等の感想のどれが中《あた》っているかは、まだ容易に断定出来ない。
今度は山を降って下町をあるきまわる。
鉄コンクリの悲哀
下町に来てまっ先に眼に付くものは、丸の内に並んだ大建築である。そこに暴露された鉄筋コンクリートの悲哀である。
余談に亘るが、世界中で亜米利加《アメリカ》位オセッカイな国はあるまいと思われる。
先ず嘉永六年に日本に来て、浦賀の港で大砲というものをブッ放して、「文明開化」という珍らしいものを教えてくれた。慌て者の日本人はすっかり驚いて、日本《やまと》魂までデングリ返らせた結果が、今日では処《ところ》構わず爆弾を取り落すような悲しい民族的精神となり果てた。
亜米利加《アメリカ》はそれでも飽き足らずに、今度は日本に鉄筋コンクリートというものを教えてくれた。
「地震位に恐れて、そんな燐寸《マッチ》箱みたいな家に縮こまってる必要はない。学理と実際の研究で生み出された鉄筋コンクリートの力は、絶対に信用してよろしい。日本中が引っくり返っても、これだけは残る」
と宣伝した。
日本の建築界は浦賀の大砲以上に仰天した。
日本の博士、技師、請負師なぞの歓迎ぶりと来たら大変なものであった。何しろ学理と数字の上の云いわけは世界に劣らぬが、実際上の損害賠償は一切しないというのが、博士や技師の道徳である。その又博士や技師に一切の責任を負わせて仕事をするのが、請負師の習慣と来ているから堪らない。金は取り放題、責任はアメリカへというので、腕に撚《より》をかけると、ここ東京の丸の内、日本丸の機関部という、堂々青天を摩する大建築を並べた。その中《うち》で最新式|請合《うけあい》付きのものが、曰《いわ》く「内外ビル」、曰く「東京会館」、曰く「有楽館」、曰く「丸ビル」、曰く「郵船ビル」……。
たった五ツと云う勿れ。これ等の一つでも大人国の重箱の何千層倍あろうか。学理と実際……鉄とセメントの化け物然として、吾が国の建築界空前の盛観を作るかのように見えた。
これを見て憤慨したのは日本の「地震|鯰《なまず》」であった。
「ヤンキーがヤンキーなら、ジャップもジャップだ。学問だの数学だのと、あとから出来たものにばかり驚いて、弄戯化《ふざけ》た真似をしやがる。百年前に生れた奴は一匹も居ないと見える。憚《はばか》りながら日本の地震鯰様は昔から無学文盲で押して来た人だ。文明や最新式位に驚く人じゃねえ。畜生、見やがれ……」
と云ったかどうか。
これも腕に撚《より》をかけた向う鉢巻という奴で、そこいらを一ツゆすぶった。
東京会館は腰を抜かした。
丸ビルは全癒三ヶ年の重傷を受けた。そのほかのも、腰から向う脛《ずね》のあたりに半死半生の大傷を受けて、往来から中の方がのぞかれるという始末。内外ビルなんぞは、最初の一ユレで八階から地下室までブチ抜けて、数百の生霊をタタキ潰すというウロタエ方であった。
そのみじめな残骸を見てまわると、吾が日本の「地震鯰」も嘸《さぞ》かし溜飲が下ったろうと思われる痛快さである。
然しこれは学理ばかりで実際を推し測った最新式の建築ばかりで、そのほかの「地震鯰」を馬鹿にしなかった建築はチャンと残っている。その多くは割り合いに時代の古い、旧式の設計で出来た鉄筋や煉瓦なぞで、海上ビル、東京駅、帝国ホテルその他である。
その中でも帝国ホテルは極《ごく》新しい方ではあるが、その代り「地震鯰」に敬意を払い過ぎて、地面に四ツ這いに獅噛《しが》み付いた形をしていただけに、ヒビ一つ這入っていない。聞けば技師は米国でもかわり者で、「おれの建築のねうちは今は分らない」と云っていたそうであるが、成る程もうわかった。日本の鯰と親類だったかも知れぬ。
こんな事実を眼のあたり見て行くと、そこに何らかの暗示がありはしないか。
活動や風俗はもとより、商店の広告からカフェーの設備と、何から何まで米国式流行の日本に何等かの警告を与えている「ある意味」が潜んではいないか。
すくなくとも、一種の「恐米病」又は「酔米病」に囚われている日本には、しっかりしたものは一人も居ない。只「地震鯰」が一匹控えているだけという証拠になりはしまいか。
青空を又押上げる?
地震に居残った旧式の大建築、又は最新式の丸潰れや半壊れのすき間すき間を、丸の内一面にバラックが建て込んでいる。
そのうち七割は飲食店や、菓子、缶詰なぞいう食料品店。あとの三割が煙草屋、雑誌屋、玉突き、理髪、銭湯、占師、貸本屋といったようなもの。それが又大部分が中等以下の安バラック式で、何の事はない、目下の丸の内は、西洋式の大建築と日本式のゴチャゴチャした小店を詰め込んだ、極端な和洋折衷の姿である。
その中にも飲食店は東京の安ッポイ処を代表していると云っても差支えない。カフェー、すき焼、天プラ、すし等はほかに見られぬ安価なうまいものが見られる。
たとえば洋食や支那料理で二十銭から五十銭も奮発すれば、充分に腹が張るのがある。簡易の一汁一菜が十二銭|乃至《ないし》十五銭、かなりの出前弁当が二十銭、アイスクリームとアズキアイスは最下五銭から十銭位のがある。
どうしてこんな店ばかり集まっているかと云うと、この辺の商売の大|顧客《とくい》とするものは、主として日比谷の避難バラックの住民と、前に述べた大建築の修繕や何かに雇われた人足達と、その大建築に雲の如く出入りする腰弁達の三つである。その中でも腰弁たちは、身なりだけはなかなか立派なのが多いが、その割りに安物を漁《あさ》るので、扨《さて》こそ彼等を当て込んだ「うまい」「安い」という文化的? な看板がこの辺に殖えたのである。
とにもかくにも、日本の中心の、その又中心の丸の内で仕事をする人達が、こうした安物で養われていることは、「東京の裏面」に現われた興味ある現象と云ってよかろう。
銀座に来ると模様がガラリと違う。
地震前から持ち越しの永久的大鉄筋の間に、半永久的の上等なバラックが犇《ひしめ》き並んで、見様《みよう》によっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。何しろ日本目抜の商店が、「サア来い。数年後にはブチ壊すにしても、そんな粗末なものは作らないぞ」と腕まくりをして並んでいるのだから無理もない。ちょっと見るとこれがバラックかと思われるようなのもあって、新開地式の安ッポイ気分があまり流れていない。
裏通りも同様で、表通りよりは新開地式であるが、それでも丸の内のソレより数等上である。今春あたりから粋な横町辺に並んだ格子先には、昔にかわらぬ打水に盛塩《もりじお》の気分がチョイチョイ出ている。
京橋を渡りすこし宛《ず
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