たのが、堂々たる江戸ッ子の、しかも問屋の屋根であったことは記憶している。
記者は避難民のこの態度を憎むものではない。又当局のヤリ口を賞めるものでもない。これは震災後に於ける、一時的の気分のあらわれでなければならぬ事は無論である。しかしこのバラックの中に居る人々の中に、大和民族の代表的性格を体現した、あの「江戸ッ子」が居ようとは、どうしても信じられないことを悲しむのである。
あれだけの侮辱を受けながら返事もし得ないで、只お金だけ溜めたい、自分の趣味だけを満足させるだけで満足して生きて行きたい、一日恥を忍べば一日だけ得だという亡国的の根性を、これ程までに罵られてだまっている意気地なさ……日本中の或る一部の人種ならいざ知らず(うっかりすると大部分かも知れぬが)、すくなくとも江戸ッ子としては忍び得ないところであろうと考えられる。
それがそうでないのだから呆れざるを得ない。「江戸ッ子滅亡」を思わざるを得ない。そうしてこの無残な、果敢《はか》ない江戸ッ子の現状に対して、一滴の涙なきを得ない。
彼等の宣言は真に口先ばかりであったか。彼等は真に東京の文化を背負って立つものではなかったか。彼等の腸《はらわた》は昔から本当に無かったのか。彼等の本当の魂は、彼等が足下に踏みにじっていた田舎者のソレよりも、無自覚な、意気地ないものであったか。
更にもし彼等が日本民族の性格を最高潮に代表していたものとすれば、そうしてもし日本民族の全都が一度《ひとたび》恐るべき打撃を受けたとするならば、すぐに彼等と同様の亡国的の根性になり果てて、再び立つ勇気が無くなる事を、彼等の現状が説明しているのではあるまいか。
これはあまりに先走り過ぎた想像、もしくは神経過敏のお仲間で、江戸ッ子ばかりでなく、吾が日本民族を侮辱するものと云う人があるかも知れぬ。
……それは実際そうである……実に申しわけがない……相済まぬ次第である……そんな事があってはならぬ……ない方がむろんいいにきまっている……しかし江戸ッ子の現状を見ると、思わずそんな事を考えさせられるのだから仕方がない。
江戸ッ子の出来た由来を考えて、震災後の現状に照し合わせて見ると、これが天の啓示でなくて何であろうと、思わず身の毛が竦立《よだ》つものがあるのを、記者はどうしても否定することが出来ないのである。
プロ文化の開山
すこし話が学校じみておかしいが、順序だからちょっとの間《ま》勘弁していただきたい。
日本民族はちょっと見ると、純プロ式の性格を持っているように見える。うっかりすると直ぐに浴衣の尻をマクリたがる、外国に行ってもお茶漬の夢を見るところなぞは正にそうとしか見えない。
ところがその作った文化を見ると、初めからおしまいまでブル式の文化である。
言葉を換えて云えば、ヤマト民族はどうしてもプロ階級の文化を作る資格がない。ブル根性が死んでも抜けない人種だと云い得るようである。
論より証拠、日本の文化は先ず蘇我氏や藤原氏なぞいう貴族の手で、奈良や京都、浪華《なにわ》なぞを都として開かれた。それは勿体《もったい》ぶった、優にやさしいものであった。
その貴族が太平に慣れて、増長をして、無力になると、今度は彼等が馬鹿にしていた賤《いや》しい武人が天下を取って、鎌倉を中心にして、反ブル的な剛健質朴な武人の文化を作った。その親玉となったものは源氏、北条氏であったが、これがだんだんと堕落してブル気分を含んで来た挙句、足利時代の半分貴族半分武人式の文化を作ると亡びてしまった。
この頃から、天下を取るものは氏素姓を構わぬという思想が、いよいよ深く一般に行き渡り始めた。これが戦国の世の幻影で、見方に依ってはこの時代を政権に対するプロ思想の普及時代とも考えられるのである。
余談は扨《さて》置いて、結局、氏素姓のちゃんとした織田信長が天下を取ったが、彼の政権に対する思想はともかくもとして、その国家的文化に対する考えはその性格から見てもブル式であった事は疑われぬ。その次に本当のプロレタリアットたる秀吉が天下を取ると、これは又特別|誂《あつら》えの一代分限式ブル思想の持ち主で、見る見るうちに亡びてしまった。
この時まで日本民族が作り得た文化は、プロ式なものは一つも無かったと云える。
ところが徳川の天下になると、今度は江戸城下の新開地に日本各国の人民が集まって、ここに日本式最初のプロ文化を作り始めた。しかも前に立った貴族文化が主として藤原氏を中心とし、武人の文化が源氏や北条氏を首石《おやいし》にしたのと違って、江戸に生れた平民の文化は、正真正銘、日本全国の寄り合い勢《ぜい》で作ったものに相違なかった。
千代田の城の千代かけて、あおぐ常盤《ときわ》の松平《まつだいら》――花のお江戸か八百八町――昔にかわる武蔵野の、原には尽きぬ黄金草《こがねぐさ》――土一升に金《かね》一升、金の生《な》る木の植えどころ――百万石も剣菱も、すれちがいゆく日本橋――。
こうした太平繁華の気分は、日本諸国の集まる勢を夢のように酔わした。
その中に行わるる激烈な生存競争は、彼等の神経を「生き馬の目を抜く」までにとんがらした。
この競争に打ち勝って、この盛り場に生存し得るという誇りは、彼等の感情を「誰だと思う、つがもねえ」まで昂ぶらせた。
こうして日本民族の中に選《よ》りに選った勝気な、飲み込みの早い、神経過敏な連中ばかりが、この新たに出来た平民の生存競争に居残って、益《ますます》その平民的なプライドを高め、町人的|日本《やまと》魂を磨いて行った。
奇麗好き、率直、無造作なぞいう性格は極度にまで洗練されて、所謂江戸ッ子の中ッ腹となって現われた。
趣味の方も同様であった。気の利いたもの、乙なもの、眼に見えずに凝ったもの、アッサリしたものなぞいう、彼等の鋭い神経にだけ理解されるような生活品や見物《みもの》、ききものがもてはやされた。そうして、そんな趣味のわからぬ者を、彼等は一切馬鹿にした。
事実彼等は一切の他国人の趣味を軽蔑した。そこには、彼等が日本中で最高の人種である「天下の町人」だというプライドが、云わず語らずのうちに流れていたのである。
プロ文化の末路
しかしこうした江戸草創時代の元気横溢した平民の気象――逃げ水を追《おい》つつまきつつ家を建てた時代の芳烈な彼等の意気組は、太平が続くに連れて、次第に頽廃的傾向即ちブル気分を帯びて来た。
彼等が「江戸ッ子」という集団を作って江戸の町々に根を卸《おろ》して、最早どんな偉い人様が来ても彼等の前に頭が上らぬとなると、彼等は永久に彼等を踏み付けると同時に、自然仲間同士でもプライドの競争を始めることとなった。
彼等はその御自慢の性格や趣味を弥《いや》が上にも向上さして、あらん限りののぼせ方をした。その結果、その云うことやすることがみんな上《うわ》ずって、真実味が欠けて来た。うわべは昔以上に生気溌剌たるものがあるようで、実は付け元気や空威張りになって来た。
彼等の負けぬ気は口先ばかりの腸《はらわた》無しとなった。彼等の奇麗好きはカンシャクとなった。率直が気早となり、単純が早飲み込みとなり、無造作が無執着となった。
彼等の中ッ腹は無知、無定見の辛棒無し……つまり無鉄砲の異名となった。江戸前の気象というのは、只《ただ》鼻の先の事にばかりカッと逆上《のぼ》せあがる、又はほんの一刹那の興味ばかりを生命《いのち》よりも大切がって、あとはどうでもいいという上っ調子を云うことになって来た。
熱い湯に這入れぬと云って山の手のものを軽蔑した。洒落《しゃれ》がわからぬと云って学者を馬鹿にした。話が早わかりせぬと云って算盤《そろばん》を取るものを仲間外れにした。十両の花火のパッと消えて行くのを喜び、初|松魚《がつお》に身代を投げ出し、明神のお祭りに借金を質に置いた。
彼等の平民的性格の中にこうしたブル気分が流れ込んだ原因の中には、天下泰平から来た武士の無力と、彼等の富の膨張も勿論加わっているのであるが、とにかくこうして彼等の気象の中《うち》には次第に亡国的気分があらわれて来たのである。
トドのつまり、彼等は六ヶしいことがわからないのを誇りとするようになった。政治向きのこと、法律のこと、経済のこと、物の道理や筋道……そんなジミな、シッカリしたようなことはかいもくわからぬ単純さを、江戸ッ子の自慢にするようになった。彼等の平民的気象は、太平が長かったためにあまりに洗練され過ぎて、サッパリを通り越してアッサリとなり、とうとう空っぽになってしまったと見られる。
その癖《くせ》彼等は、器用にお金を使ったり呉れたりする人間を、すぐに親方とか兄いとかにあおいだ。
彼等はいつでも金に困り抜いていながら、金を欲しくないという顔をしている。だからその意気を賞め、その同情を得るだけの言葉……つまり、頼むとか何とか云いさえすれば、「ええ、もう金なんぞはどうでも」と云いながら金を手にするようになった。
その憐れむべき心理状態に自ら気が付かぬほど彼等は無知となった。金で使われているのを気が付かずに、向う鉢巻きの双肌《もろはだ》脱いでかけまわるほど憐れな人種となり果てたのであった。
勿論、その間《かん》の気合いは支那人のそれとはまるで正反対であるとしても、事実に現われた結果は極端と極端の一致で同じことになる。無気力、無節操なぞいう亡国的人民の資格をすっかり備えていることになるのである。
唯その間に一片同情の涙を灌《そそ》ぐ余地があるかないかの違いである。
こうしてドン底に近づいた彼等の無気力さが、維新の時、江戸城を安々と官軍に明け渡してしまったのである。勝安房は彼等の無力を理解し過ぎる程理解していたから、あんな手段を執ったのである。江戸城明け渡しは徳川国の滅亡であると同時に、江戸国民が亡国の民たる事実を裏書したのであった。
同様にこうした彼等の無知さが、東京市政を今日の如く腐敗さしたことは、最早疑う余地はないであろう。彼等はその故郷たる東京市の市政がどんなものか、その選らむべき候補者がどんなものでなければならぬか、そんなことを考え得る人民ではない証拠がとっくの昔挙がっている。
特に明治維新後の彼等は、「ギャッと生れたその時から」亡国の民であったのだ。伝統的なお祭りとベランメイ語と、有り来《きた》りの江戸趣味のために存在している、古代民族の名残りに過ぎなかった。「ドテッ腹へ風穴をあける」なぞと大きな事を云い合いながら、いつまでも何もし得ない支那人式喧嘩を見得《みえ》にしている、気の毒な民族であったのだ。
彼等に選挙に対する自覚を望むのは、比丘尼《びくに》に○○を出させるより無理な注文かも知れぬ。
江戸ッ子の人口減少
江戸ッ子は大和民族としての最初の民衆《プロ》文化を作った。その性格は大和民族の平民|気質《かたぎ》を煎じ詰めたものであった。そうして、昔、貴族階級や武士階級の文化がそれぞれブル式に爛熟して亡びたように、彼等の文化も平民的の形をとったブル気分を帯びつつ亡びてしまった。
この事実は何を語るか。
ヤマト民族が到底ブル根性を離れ得ないことを示しているのではあるまいか。吾がヤマト民族が、初めは武人の手に依って、変形的プロ文化を作って失敗した。続いて全国民の中から選り抜いた理想的平民を以て、純真のプロ文化を作ったが、とうとう我慢し切れずにブル気分にカブレて堕落衰亡したものと云えないであろうか。
この次に又別のプロ文化を作る見込は絶えた。そうしてプロの文化を作り得ない民族は必ず堕落滅亡するものとしたら、吾大和民族の文化的使命もこれでおしまいに了《おわ》ったのではあるまいか。
一方に彼等の文化は徳川の封建制度の反映を受けて堕落したとも云える。吾等大和民族は、このような政治的の反映を受けぬ、純平民的文化を作る力はもう無いのであろうか。そうして平民文化はこうした都会にしか作られないものであろうか。
とにかくにも帝都に居る古代民族……「江戸ッ子」の命脈
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