して往来をジロジロ見送っている。
紅梅焼きを焼く銀杏《いちょう》返しを初め、背広を着て店に並んで、朝から晩まで三円五十銭の蓄音機を鳴らす三四人の青年、お人形のお腹を鳴らすお神さん、猫や兎のオモチャを踊らすお婆さん等、どれもこれも買って下さいというような顔は一つもない。只まじめ腐って、生き人形のように手を動かしているばかりである。
震災後二三ヶ月の間のここいらはこんな事ではなかった。皆声を限りにお客を呼んで、素通りをしても昂奮《のぼ》せ上る位であった。これが今では、「入らっしゃい」とも「如何様」とも何とも云わないから、何だか浅草らしくないような気がする。
しかし考えて見ると、いろんな呼び声を出してお客の反感を買うのは野暮の骨頂である。こうして品物を並べたり動かしたりしているのが、最も適切に「イラッシャイ」や「イカガ様」を表現している事は見易い道理である。
しかもその品物のどれにもこれにも、一つ残らず大きな正札が付いているから、一層現実的である。中には五六間離れても見える位大きな価格札《ねだんふだ》があって、品物に依っては札の下に隠れてしまっているのもある。この辺が浅草式であろうか
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