あるのを見ると、真に涙ぐましい程の心強さと嬉しさを感じさせられる。
 併し又、バラックの眺望は一種の哀愁をも漂わしている。
 昔の東京の眺めは何となく奥床しいところがあった。彼《か》の青黒く影絵のように並んだ屋根瓦の一つ一つにも、徳川から明治まで何百年かの歴史の重みが結び付いていた。云い表わし難い情緒が流れていた。
 それが今のバラックにはない。その色の安っぽさ、毒々しさを通じて、只《ただ》生存競争、見かけばかりといったような、さもしい浅墓な気持ちしか感ぜられぬ。
 しかしこれ等の感想のどれが中《あた》っているかは、まだ容易に断定出来ない。
 今度は山を降って下町をあるきまわる。

     鉄コンクリの悲哀

 下町に来てまっ先に眼に付くものは、丸の内に並んだ大建築である。そこに暴露された鉄筋コンクリートの悲哀である。
 余談に亘るが、世界中で亜米利加《アメリカ》位オセッカイな国はあるまいと思われる。
 先ず嘉永六年に日本に来て、浦賀の港で大砲というものをブッ放して、「文明開化」という珍らしいものを教えてくれた。慌て者の日本人はすっかり驚いて、日本《やまと》魂までデングリ返らせた結果が、今日では処《ところ》構わず爆弾を取り落すような悲しい民族的精神となり果てた。
 亜米利加《アメリカ》はそれでも飽き足らずに、今度は日本に鉄筋コンクリートというものを教えてくれた。
「地震位に恐れて、そんな燐寸《マッチ》箱みたいな家に縮こまってる必要はない。学理と実際の研究で生み出された鉄筋コンクリートの力は、絶対に信用してよろしい。日本中が引っくり返っても、これだけは残る」
 と宣伝した。
 日本の建築界は浦賀の大砲以上に仰天した。
 日本の博士、技師、請負師なぞの歓迎ぶりと来たら大変なものであった。何しろ学理と数字の上の云いわけは世界に劣らぬが、実際上の損害賠償は一切しないというのが、博士や技師の道徳である。その又博士や技師に一切の責任を負わせて仕事をするのが、請負師の習慣と来ているから堪らない。金は取り放題、責任はアメリカへというので、腕に撚《より》をかけると、ここ東京の丸の内、日本丸の機関部という、堂々青天を摩する大建築を並べた。その中《うち》で最新式|請合《うけあい》付きのものが、曰《いわ》く「内外ビル」、曰く「東京会館」、曰く「有楽館」、曰く「丸ビル」、曰く「郵船ビル」…
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