理解も存在しないのだから」
 東京市民の大部分は皆驚いた。そうして変に思った。
 東京市長永田秀次郎氏は、後藤新平氏のあとを受け継いで東京市長の椅子に座ると間もなく、彼《か》の大変災に出会った。高知の富豪の子で、人格者で、大男で、文芸趣味に造詣《ぞうけい》が深く、寝ころんでも愉快に生涯を送れる身分でありながら、七面倒臭い東京の市長になって、兎《と》も角《かく》も利欲に眼をくれず、どっちかといえば大した過ちもなく、あれだけの世話を焼き通して来たところを見ると、余程の自信と覚悟とがあったものと見なければならぬ。それが市区改正の大事業……言葉を換えて云えば東京の改造……否、寧ろ日本文化の中心改造という大仕事を眼の前に控えながら、高が一局長の椅子に市会が押し上げた人物が気に入らぬ位の事で、市長の椅子を蹴飛ばす程短気であろうとは、誰しも想像し得ないところであっただろう。
 永田氏が去ると同時に、その部下の有力者数名もバタバタと辞表を出して椅子を離れたので、東京は首無し死体どころではない。首から上が抜けてしまって、一時ヨイヨイのようになってしまった。
 も一つ驚いたことには、新たに電気局長の椅子にねじ据わった大道良太クンが、なかなか座り腰の強いことであった。部下がストライキを起しても、新聞で嘲られても恬《てん》として知らぬ顔で、あべこべに盛《さかん》に熱を吹いて、「俯仰天地に愧《は》じぬ」とか、「断じて市会議員を買収したおぼえはない」とか云っていた。
 その口の下から、怪しい市会議員がドシドシ検事局へ引っぱられた。そうして買収された罪状が一々明白になったにも拘らず、大道局長は依然として反《そ》り身《み》になって、例の鼻眼鏡を光らしていた。
 サア、みんなわからなくなって来た。見様《みよう》によっては永田が意気地なしで、大道がシッカリしているようにも見える。とにかく門鉄局長以来、好人物の小才子で通って来た大道良太先生に、どうしてあれだけの糞度胸があるのだろうとみんな舌を捲いた。
 すると又わからないことが出てきた。
 後任市長が無いというので、方々《ほうぼう》の人格者や名望家なぞに市会の銓衡《せんこう》委員が押しかけてまわったが、みんな体《てい》よく断られた。その断りかたがいずれも奥歯に物の挟まったように叮嚀《ていねい》で、何だか「東京市長になるのは一大の恥辱です」という、恥辱の
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