が学校じみておかしいが、順序だからちょっとの間《ま》勘弁していただきたい。
日本民族はちょっと見ると、純プロ式の性格を持っているように見える。うっかりすると直ぐに浴衣の尻をマクリたがる、外国に行ってもお茶漬の夢を見るところなぞは正にそうとしか見えない。
ところがその作った文化を見ると、初めからおしまいまでブル式の文化である。
言葉を換えて云えば、ヤマト民族はどうしてもプロ階級の文化を作る資格がない。ブル根性が死んでも抜けない人種だと云い得るようである。
論より証拠、日本の文化は先ず蘇我氏や藤原氏なぞいう貴族の手で、奈良や京都、浪華《なにわ》なぞを都として開かれた。それは勿体《もったい》ぶった、優にやさしいものであった。
その貴族が太平に慣れて、増長をして、無力になると、今度は彼等が馬鹿にしていた賤《いや》しい武人が天下を取って、鎌倉を中心にして、反ブル的な剛健質朴な武人の文化を作った。その親玉となったものは源氏、北条氏であったが、これがだんだんと堕落してブル気分を含んで来た挙句、足利時代の半分貴族半分武人式の文化を作ると亡びてしまった。
この頃から、天下を取るものは氏素姓を構わぬという思想が、いよいよ深く一般に行き渡り始めた。これが戦国の世の幻影で、見方に依ってはこの時代を政権に対するプロ思想の普及時代とも考えられるのである。
余談は扨《さて》置いて、結局、氏素姓のちゃんとした織田信長が天下を取ったが、彼の政権に対する思想はともかくもとして、その国家的文化に対する考えはその性格から見てもブル式であった事は疑われぬ。その次に本当のプロレタリアットたる秀吉が天下を取ると、これは又特別|誂《あつら》えの一代分限式ブル思想の持ち主で、見る見るうちに亡びてしまった。
この時まで日本民族が作り得た文化は、プロ式なものは一つも無かったと云える。
ところが徳川の天下になると、今度は江戸城下の新開地に日本各国の人民が集まって、ここに日本式最初のプロ文化を作り始めた。しかも前に立った貴族文化が主として藤原氏を中心とし、武人の文化が源氏や北条氏を首石《おやいし》にしたのと違って、江戸に生れた平民の文化は、正真正銘、日本全国の寄り合い勢《ぜい》で作ったものに相違なかった。
千代田の城の千代かけて、あおぐ常盤《ときわ》の松平《まつだいら》――花のお江戸か八百八町――昔にか
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