少々落胆の気味で、今度築地に出来た魚市場に行って見ると、居た居た、鬚《ひげ》を皮の下まですり込んで、肉に喰い込むような腹かけ股引きに、洗い立ての白鉄火を着た兄い連が、新しい手拭《てぬぐい》を今にも落ちそうに頭のテッペンに捲き付けて、駈けまわっていた。
「アラヨーッ」
トットットットッと曳き出す掛け声をきいて、記者は久し振りで溜飲が下がったような気がした。
吝《しみ》ったれた兄哥《あにい》
魚市場のすぐうしろにある、無線電信のポールを秋空高く仰いだ向う岸の築地三丁目以南、起生橋を中心としてベタ一面に並んだ店は、いかさま彼ら兄い連の御蔭で繁昌しているものと見えた。
つい一年前までは、この辺は墓原や成金壁なぞで埋められていて、夏なぞはせんだんの樹の蝉時雨《せみしぐれ》の風情があるという、かなり淋しいところであった。それが魚市場が出来て、純粋の江戸ッ子が集まって来るにつれて、急にこんなに賑やかになったのだから、ここの店をのぞいて見たら、彼等の趣味や嗜好が手っ取り早くわかるかも知れぬと考えた。
然るに情ない事に、記者は正しく熊襲《くまそ》の末裔と見えて、江戸ッ子の風《ふう》付きは一眼でわかるが、彼等の喰い物に対する趣味がどれ位高いかは、まだ充分に味わい出したことがない。喰うのは一渡り通《つう》なものを大抵喰って見たが、物の本や通の話にあるような風味はなかなかわからぬ。只そうかなと思うばかりである。もっともそんな喰い物の材料の上等なこと。店がキタナイようで、実に非常に気が利いていること。その中に一種の江戸趣味といったような気分が流れていることなぞはどうやらわかる。それから、眼の玉の飛び出る程高価なことが、最もよくわかったくらいのことである。
これ位の程度の江戸通をたよりに、記者はその辺の往来をノソノソあるいて見た。
寿司を握っている手付きや、海苔《のり》をあぶるにおい、七厘《しちりん》の炭のよしあし、火加減、又はまぐろの切り加減なぞをよっく見た。
天プラ屋の煮え立つ油のにおいを嗅いだり、ころもの色をながめたりした。
煮売屋に据えてある酒樽の商標や、下げてあるビラの種類を見た。洋紅《ようこう》で真赤に染めてあるウデ蛸《だこ》の顔をながめた。
どれを見ても江戸ッ子のにおいが薄いようであった。上等とは思えなかった。醤油もいいにおいや味がしなかったようで
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