仮りに或る一文無しが百円の金を儲けたとする。
その中から二十円を奮発して芝居見に行く事になったとする。
これを聞いた人々が、
「ソレは身分不相応だ……ブル思想だ……二十円の金で何十人の飢が凌《しの》がれると思う……血も涙も無い奴だ……第一百円の金を儲けるのが不都合だ……大方泥棒でもしたんだろう……元来金というものはソンナに一人占めにすべきものではないのだ……ソレを自分の物のように心得て、事もあろうに芝居見に行くとは非国民の行為だ……国賊の所業だ……民衆の敵とは貴様の事だ……行くなら行って見い……打ち殺してくれるから」
と罵《ののし》ったらどうであろう。
罵しられた方は当り前の人間で、罵った方が馬鹿か気違いにきまっている。そうでなかったら、お金欲しさに血迷った奴である。こんなのがお金に有り付いたら、二割や三割どころでない、十割以上も飲み喰いして足を出す輩《やから》である。ブル以上のブル根性を発揮する連中である。だから平生貧乏しているのだと冷かされても仕方があるまい。
ところが事実はこれを裏切った。天下の富豪大倉喜八郎氏が百何十万円とかを投じて賀筵《がえん》を張る。そのために支那から俳優を招くという事が一般に伝わると、真剣な意味で非常な輿論《よろん》を捲起《まきおこ》した。
大倉家の財産がいくらあるか知らぬが、割合にすれば百円に対する二十円よりも小さいにきまっている。さあ新聞でタタク。何とか会員が脅迫に行く。いよいよ賀筵になると、警察が青くなって巡査に護衛させるという騒ぎであった。
何がどうした、だれがどうなったという事は一つもない。只百何十万円という声に昂奮しただけである。大倉の爺さんが爺さんなら民衆も民衆で、馬鹿馬鹿しいと云おうか情ないと云おうか。日本のブルジョアとプロレタリアットとが、大体に於てコンナ浅薄なブル思想に囚われた議論で押し合っているのなら、どちらにしても「ドッチモドッチ」である……記者は街頭に立って夕刊を読みながら天を仰いで嘆息した。
笑ってはいけない。記者は真剣である。国賊だの民衆の敵だのと、まわりくどい事は頭に浮ばぬ。只、「それだけのお金が欲しい」とシミジミ思わせられたのである。
それはそれとして、日本の上流社会の一番ドエライところを代表したのがこれ位のところで、紀文《きぶん》や奈良茂《ならも》の昔語りよりも大分落ちるようである。
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