のだから、ウンザリせざるを得ない。
こうして東京市民の頭は、刻一刻と東京の市政に対する興味を喪って行く。否、現在では、愛市心なぞいうものは、殆ど絶無としか記者の眼には認められない。
故勝海舟翁はこんな意味のことを云ったことがある。
「昔、江戸市中のお布告《ふれ》だの掟書《おきてがき》なぞいうものは、みんな人民にわかり易い文句ばかりで書いてあった。それが御維新後になると、急に八釜《やかま》しい漢語になってしまったが、これは人民に政治をわからないものと考えさせて、お上《かみ》のなさることに口出しさせないために持って来いの妙案かも知れぬ」
と。この言葉を味わって見ると、云うに云われぬ皮肉な意味が出て来て、思わず膝を打つようなところがある。
誰でも自分のわるいことを弁解をして塗りかくすためには、鹿爪らしい漢語を使うものである。勿体《もったい》らしく構えて、腹の底を見すかされまいとする時も同様で、こんな場合に漢語位便利なものはない。
明治維新後、新政府の権威を見せるために、又は人民を煙に捲いてドンドン改革をして行くためには、法令でも、布告でも、何でも、漢語と片仮名で塗りかためて人民の前につき立てて、内幕をのぞかれないようにする必要があった。官僚や藩閥は漢語の蔭にかくれて、あれだけのわるいことをした。社会主義者なぞいうものは、人民の学力が進んで、この漢語の眼かくしが楽に見透かされるようになったために出て来た不平だとも云える。
海舟翁は、幕末の遺臣で、大勢に押されて江戸城を官軍に渡したとはいえ、新政府の連中の腹の中はちゃんと見すかしていた。だから、それとなくこんな皮肉を云ったのではないかと記者は思う。
折しもあれ、東京市長更迭に際して、こんな古めかしい漢語芝居が行われつつあるのを見て、今昔の感に打たれざるを得なかった。今に東京の市政は、漢語の本家本元の支那のようになりはしないかと思われる。
いずれにしても、事実上、東京の市政はこうして次第に暗黒化されて行くのである。
チグハグな道路工事
往来で買った新聞を通じて東京市政を見ると、こんな風にトンチンカンに見える。ところで街頭から東京市政の裡面を見るには、新聞にたよるほかは、テクシーで見てまわるほかはない。記者は今度は市でやっているいろんな工事を見まわってみたが、この「トンチンカン」さが一層ヒドいのであ
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