、同じ後藤系の人物を抜きさしするのに、何でこんな芝居を打たなければならぬのであろう。
仮に永田氏が立派な人物で、市会の悪議員が仕事の邪魔になるから追っ払ったものとしても、又は永田氏がケチな人物で、今までに儲けるだけ儲けたから、いい潮時と逃げを打った芝居だとしても、或は又すべての魂胆の策源地を後藤新平側だとしても、どっちにしてもわけのわからないところが出来て来る。
それかといって、全然芝居でない白真剣《しらしんけん》の立ち廻りだとしたら、いよいよ奇妙奇天烈で、狐や狸や貉《むじな》の類が乗せっこのバカシックラをしているのを、遠くから見ているようなわけになってしまう。
これを要するに、記者がこれまで一生懸命に説明したことは、トドのつまり何のことやらわけのわからぬ事を、自分でもわからないままに述べ立てたわけになる。まことに申し訳ない次第であるが、これは決して読者を馬鹿にしているのでもなければ、記者の頭がわるいのでもない。
すべて政界の出来事の表面がトンチンカンに見える時、その裡面に卑怯な真相が横たわっていることは、誰でも感付くことである。
東京市政界の裡面に、何者か知らず大きな卑怯な事実が動き流れていることは、その表面の矛盾の大きさでもあらかた推測される。その卑怯な事実を支配している連中は、その矛盾を塗りつぶすためには……そこから市井《しせい》の内幕を見すかされないために、いろんな形式や、相談や、挨拶や、宣言や、発表や何かでその間を埋めてしまった。つまり芝居をやったわけである。
その芝居たるや、役者は悉《ことごと》く羽織袴《はおりはかま》、もしくはフロックコートで、科白《せりふ》が又初めからしまいまで、漢語に片仮名まじりの鹿爪《しかつめ》らしい言葉ばかりである。
「職責」とか、「面目」とか、「感銘」とか、「遺憾」とかいう漢語が、如何にも重大な意義を持っているかのように持ちあつかわれている。
その筋の宣伝や布告が日に増し民衆的になり、言文一致に近づいて、債券のまき上げ方? なぞは玄人《くろうと》が舌をまく位に進歩している矢先だから、この礼服総出の漢語劇は一層人眼に立って見えた。それがみんな、市民を煙にまく目的でやったのだから、呆れ返らざるを得ない。
「ナアンダ。馬鹿馬鹿しい」
と東京市民が相手にしなくなればなる程、彼等市政の黒幕連は勝手なまねが出来るわけになる
前へ
次へ
全96ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング