様で一円から四五円まで)、銀台|鍍金《めっき》の銀眼鏡と鎖売り(三四円から七八円)、水晶の印形売り(同じく一円以上)なぞ数え立てて来ると際限もない。五銭や七銭のものは震災後ズッと減ったので、縁日物と云っても馬鹿に出来なくなった。
こんな縁日商人は上等のところを一つ売れば、二三日乃至一週間は楽に喰えることが、品物のタネを洗って見ればすぐにわかる。
靴下は二度染め。シャツは洗い返しで、糊とアイロンが巧妙に利いている。硝子《ガラス》の水晶、鉛やアルミの鍍金《めっき》鎖なぞは説明までもない。友禅と名づくるものは、浅草の活動館のメリンスの旗や何かを強い薬で色を抜いて、印刷同様の片側染めにしたもので、汗が出ると肌に染みる、引けば破れるという代物である。
「天保銭一枚がもう無くなった」というのは疾《とう》の昔の事。三人で一円持って浅草に行って、活動を見て、すしを喰って、それで電車賃が余るか余らないかという十年前の勘定でさえ、今はもう夢の夢となっている。
昨年か一昨年かの事であったそうな。観音様のまわりに居る興行師が寄り合って、面白い統計を作った。その統計の眼目となっているものは、浅草に来る人々の懐にいくら金があるかという事である。
これはその組合の仕事の標準となるべきもので、非常に厳密な且つ巧妙な手段に依って作られたものだそうだが、その結果、あの雲霞の如く浅草に押し寄せる人々は、平均三人で五円の金を持っている事がわかった。それが現在の浅草に於ける芝居、活動の観覧料の標準となり、延《ひ》いて日本全国の活動や何かの料金にも或る影響を与えている訳である。
取りあえず三人で五円持って浅草に来ると、一人前七十銭の活動を見て二円九十銭残り、二円九十銭で何か食べようか、それとも今一つ何か見ようかという事になる。
浅草の空に翻る旗差し物、鐘、太鼓、鳴り物の響き、鬨《とき》の声、矢叫《やたけ》びの音は、皆この一人当たり一円六十八銭弱の争奪戦のどよめきと見るべきである。
但、これは平均の勘定で、殊に大事に大事を取った数字だそうだから、実際はもっと余計に持っている者がすくなくないわけである。その中でもどんな客筋が一番余計金を持っているか。浅草に来る最上のお客様は矢張り昔の通り赤|毛布《ゲット》諸君であるかどうか。
浅草一帯の店の「正札無言主義」は、明らかにこの狙っている客筋が田舎者でな
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