の第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの一流どころにもポツポツ見受けられる。しかしこの式の最も盛なのは浅草で、ここを遠ざかるに従ってチラリホラリとなって行くところを見ると、この式の開山は矢張り浅草で、ここを中心として東京の商売は「現実化」して行くのではあるまいかと考えられる。
 そうして仲見世の実地試験応用の無言の行は、現実式中の現実式と云うべきであろう。
 こんな事を云うとその道の人に笑われるかも知れないが、論より証拠、こうした正札一点張りの店で買ったり喰ったりしたあと、正札の付いていない店へ行くと、何となく不安心な上に、一々店の人に出してもらったり、価格を聴いたりしなければならぬので、恐ろしく面倒な気持がする。
 店の方では叮重《ていちょう》なつもりかも知れぬが、忙しい人間にとっては迷惑千万である。そんな事で手間取らせられてはたまらない。おまけに小僧や女店員がわからないで番頭の処に聞きに行ったりすると、いよいよそうした気もちになる。
 殊にお世辞や、お愛想はまことにうるさい。余計なものまで買わなくてもいいのに買わされるような気がして、一種の不愉快さえ覚える。それを思い切ってやめると、
「まことにお気の毒様」
 と心からあやまられて、逃げるように表へ出てホッとするような事が珍らしくない。
 浅草ではそんな気兼ねは向うにもこちらにも無い。お金はこちらのもの、品物は向うのもので、あとは「もの」と「ねだん」の相談ずくで済む。しかも売り買いの中心は要するにそこ[#「そこ」に傍点]だけである。そこ[#「そこ」に傍点]を最も露骨に大道に表現しているから、浅草の店は現代式と云い得るわけである。追々《おいおい》と世の中が世智辛《せちがら》くなって来たら、こうした正札一点張りの無言の商売が大流行《おおはやり》をするようになりはすまいか。
 こう考えて来ると、浅草の観音様はエライものである。この無言と正札一点張りの仲見世の商売振りに、今一層輪をかけた商法《あきない》の名人である。第一正札も無ければ、「毎度有り難う」も云わぬ。御利益のねだん[#「ねだん」に傍点]は向うで勝手にきめて、ドシドシ賽銭《さいせん》箱に放り込んで行くのだから、お手に入ったもの。しかも自分ばかりでなく、まわりに大黒様だの何だの彼《か》だのと、数十の神仏に元手要らずのデパートメントストアを出させて、何百年間大繁
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