くろず》んだ隈が浮びでたのも、まことに無理ならぬことであった。
ひとりで部屋のうちに籠っていれば、疳《かん》にうち顫《ふる》う皓《しろ》い歯列《はならび》は、いつしか唇を噛み破って真赤な血に染み、軟かな頭髪は指先で激しぐかき※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られて蓬《よもぎ》のように乱れ、そのすさまじい形相は地獄に陥《お》ちた幽鬼のように見えた。
それにも拘らず怜悧《りこう》なるヒルミ夫人は、夫万吉郎を傍に迎えるというときは、まるで別人のようにキチンと身づくろいをし、玉のような温顔をもって迎えるのであった。秋毫《しゅうごう》も夫万吉郎に、かき乱れたる自分の心の中《うち》を気どられるような愚はしなかった。
しかもその際ヒルミ夫人は、その温容なマスクの下から、夫万吉郎の容姿や挙動について、鵜《う》の毛をついたほどの微小なことにも鋭い観察を怠らなかった。もしも万一、その夫が真《まこと》の万吉郎でない証拠を発見したときは、彼女は直ちに躍りかかって、その偽の万吉郎の脳天を一撃のもとに打ち砕く決心だった。
しかし夫は、なかなか尻尾《しっぽ》を出さなかった。尻尾を出さない
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