北信早春譜
野上豐一郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)碓氷《うすひ》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+否」、第4水準2−14−71]
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碓氷《うすひ》を越すと一面の雪で、急に冬へ逆戻りしたやうな感じであつた。さつきまでぽかぽかと早春の陽光を浴びながら上州平野を通つてゐた時とは、まるでちがつた心がまへにならないではゐられなかつた。輕井澤のプラットフォームに飛び下りて、蕎麥のどんぶりを抱へて湯氣を吹き吹き食つてゐる人たちは、皆外套の襟を立てて首をすくめてゐる。毎夏顏なじみの赤帽の爺は、無精鬚を伸ばして、われわれの車の前にぽつねんと立つてゐるけれども、誰も荷物を頼む降車客はない。
淺間は晴れた青空を背景にして、麓まで眞つ白になつて聳えてをり、その眞つ白な斜面の上を、日に照らされた噴煙の影が薄黄いろく這つてゐるのが、陽炎の搖曳の如く見えるのも、その下の方のそこここに群生してゐる落葉松の梢が、或る種類の灌木帶の芽立を思はせるやうに赤つぽく煙つて見えるのも、大氣の中には春がすでに動いてゐるからであらう。
しかし、地上の冬の頑固なこだはりは、ここいらでは思つた以上にまだ執つこく、少くとも積雪の分量は標高の大小には因らないものと見え、われわれの列車が次第に佐久平を下の方へ降つて行くにしたがつて雪消の度合は却つて少く、小諸あたりまでは、輕井澤附近と同じやうに、畑の畝が目だつほどに雪が薄くなつて、ところどころ土の肌さへ見えてゐたのに、もつと降つて上田邊へ來ると、畑も田も深深と雪に埋もれて、どれが畑だか、どれが田だかも、わかちかねる有樣だつた。家家の屋根にも、垣根にも、木の枝にも、雪が厚く殘つてゐた。
けれども、その間からも、やはり、ちよつとした物の片隅に、また、ちよつとした物の動きに、すでに春のきざしの始まつてゐるのを見のがすことはできなかつた。戸倉の温泉を左に見て、千曲川の川縁を走つてをる時であつた。ふと氣がつくと、青く淀んだ川水と雪に蔽はれた磧《かはら》の境目のところに、非常に小さい風の渦が起つて、そこに遊び戲れてゐる日光の中に絹糸のもつれのやうな陽炎が立ち、それにこすられては磧の雪が少しづつ水の中に溶け込んでゐた
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