。私は先年ソヴィエトの映畫の「トゥルキシブ」と題する一つの畫面にそれに似た自然の目ざめを捉へたところがあつたのを思ひ出し、私に寫眞技師の自信があつたら、その愉快な自然の動きをフィルムに收めて置きたかつた。
やがて汽車は川から離れた。私は明日の講演の材料にしようと思つて持つて來た本を開いてゐた。そのページの上に、ときどき小鳥の影が落ちては急速に過ぎ去つた。左側の窓からは、もうどうしても春以外のものとは思へない陽光が一ぱいに流れ込んで、どこからまぎれ込んだのか蠅が一匹、ガラス窓にとまつたり私の手にとまつたりしてうるさかつた。
長野で山崎氏に迎へられ、それから長野電鐵で、須坂《すさか》を經て平穩《ひらを》へ行く間に、今朝から快晴を見せてゐた空は、次第に陰鬱になり、白いものをちらちら落して來た。飯綱は善光寺の町の上に白い姿をどつしりと現はしてゐたけれども、その先にあるはずの黒姫も妙高も雪空に遮られて見えなかつた。
この天候の急變は、ちよつと私を面くらはしたが、考へて見ると、私自身の身體が一時間約三十キロの速度で或る天候區域から他の天候區域へ運ばれて來たことを忘れてゐたのである。それで山崎氏に聞いて見ると、この邊では朝から雪もよひの空だつたといふことである。して見ると、私の通つて來た佐久平や小縣盆地では、今ごろはやはり西日の中でまだ雪が少しづつ溶けてゐるのかも知れなかつた。
そんなことを思ひながら運ばれて行く電車の窓の前には、今まで見たどこよりも雪が深く、殊に白く蔽はれた水田の中のここかしこに、褐色の木賊《とくさ》のやうなものの群生が刈り殘されてあるのが、美しく珍らかに眺められた。それはコブヤナギといつて、「孟子」に謂はゆる杞柳《きりう》のことだといふ。性は杞柳のごとく、義は※[#「木+否」、第4水準2−14−71]※[#「木+卷」、第4水準2−15−4]《はんけん》のごとし。人の性を以つて仁義を爲すは杞柳を爲るがごとし。とある。その杞柳は柳行李の材料になると山崎氏の話であつた。
電車はやがて湯田中へ着き、そこからタクシで、町つづきの安代へ、安代から澁へと、雪で持ち上つた狹い道路を、温泉宿の軒とすれすれによろめき登つて、得中閣に着いた。
三階の修竹堂と銘を打つた部屋に通されて、下を見おろすと、磧の雪の間を川水が青くせせらいで流れてをり、向ふの山の側面の冬木立の下を
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