声が私の耳もとで叫ばれた。見ると、弥生子は顔を両手の中に埋めている。牛が馬か人かを突き殺したと思ったのだろう。しかし、誰もそんな初心な見物人を問題にする者はなかった。六万の目は熱心に牛の一対の角の上に集まっていた。馬の右腹は野球の捕手《キャッチャ》の胸当《プロテクタ》のような厚い革で保護されてあるので、私たちは腹綿の迸り出るのを見ないですんだのであるが、一九二八年以前だったら馬は一たまりもなくその場に絶命していた筈である。その頃はピカドルもしばしば突き殺された。ピカドルは今日では鎖かたびら[#「かたびら」に傍点]みたいなものを下に着込んでるそうだ。
 ところが、牛は勇猛ではあるが、愚鈍にできてるので、折角ピカドルを馬ごと突き倒しながら、第二の突きを入れる前に、駆け寄って来たテュロに赤い合羽を振られると、その方へ気を取られ、すぐその合羽の方へ突っかかって行く。それも人を突こうとするのではなく、赤いきれに突っかかって行くのである。幾ら突いても相手はふわりとして手ごたえがないので、勢力を消耗されるばかりだ。その間に、ピカドルも馬も助け起されて、もとの姿勢で板囲いの前にひかえる。
 これまでが
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