来る。牛がそんな速さで駆け出すのを私は見たことがなかった。殺気を含んで猛烈な勢でアレナの中央まで駆けて来ると、いきなり立ち止まって四方を見廻わす。初めから喧嘩腰で、よい敵はいないかと捜している。うまく仕込んだもので、もし牛がその精悍さを示さなかったら、見物人の反感はそれをいじめ殺そうとする者の上に集まるだろう。その証拠には、私はそういった場合を一度も見なかったが、駆け出した牛に闘志がないと見ると、見物人は騒ぎ立って、格闘を中止させる習慣があるそうだ。それは必ずしも人道主義的見地から反対するのではなく、勝負にならない勝負を見せられることに興味を持たないからだろう。人道的な神経を働かしてくよくよ思うような者は、闘牛場などには初めから入らない方がよいらしい。
 ひょっと気がつくと、勇敢な牛の頸には小旗のような赤い小さいきれ[#「きれ」に傍点]がひらひらしている。どこそこの牧場《ガナデリヤ》で育ったという出身を示すデヴィザ(色じるし)である。
 正面寄りの板囲いの前の其処此処に立ってる闘牛士《トレロス》の数人が牛の方へ歩み寄り、一人ずつ赤い合羽《カパ》を振ってからかいかける。牛は赤い色が癪にさ
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