闘牛の第一段で、スエルテ・デ・ピカルといい、その次がスエルテ・デ・バンデリヨである。バンデリヨは一種の鈷《もり》で、長さ二尺半ぐらい、尖に芒刺《とげ》があり、手もとに小旗のようなものが付いている。三人のバンデリエロ(鈷《もり》役)が、めいめい左右の手に一本ずつ持って、一人が二本を同時に牛の脊中に突き刺し、三人で順順に六本突き刺す。それも荒れまわる牛の正面から進んで、首を下げた瞬間に巧みに猿臂を伸ばして突き刺すのである。
すでに槍で刺されて赤い血のリボンで飾られた牛は、更に六本の鈷を花野の薄の如くに脊負って、苛《いら》だち狂ってアレナの砂の上を暴れ廻る。それから第三段の、最後のスエルテ・デ・マタルの場面となる。仕止《しとめ》の場面である。
マタドル(仕止《しとめ》役)は闘牛士《トレロス》の中での主役で、第一の花形である。第一回のマタドルはオルテガだった。精悍な体躯をした中年の男で、額が生え上ってメフィストフェレスを思わせるような相貌をして居り、短い上衣も、きちんと身についた半ズボンも白で、金糸の装飾があり、膝から下の靴下は淡紅色で、髪はぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]に鼠の尻尾のような弁髪を付けてるのが奇異に思われた。右手に絹の長い旗を持ち、その下に三尺ほどの剣《エストケ》を隠している。初めはその赤い旗で牛をからかうのであるが、左手はいつも遊ばせている。最後にその剣を突き刺す時は、頸椎骨の急所をねらって、一気に心臓まで突き通すと、牛は一たまりもなく瞬間に斃れる。しかしすぐ斃してしまっては曲がないので、長い間からかって翻弄する。それを見物人は喜ぶのである。牛は重傷を負うて狂暴になってるけれども、もういいかげん疲れきっていて、泡を吹きながら、時々前へのめろうとしたりする。マタドルは咫尺《しせき》の間に迫って、牛の身体に手をかけたり、突っかかって来る巨体を身をかわしてやり過ごしたりする。その時旗は後《うしろ》の方にやって、殆んど身を以って一騎打の離れ業を見せる。そうして十分に弄んだ後で、火焔の如き息を吐く猛牛が立ち直ると、数メートルの間隔を引き離してそれと対立する。アレナの中央に立つ猛牛の荒い鼻息が、遠く離れたテンディドスにいるわれわれの所までも聞こえるような気がした。その頃、雨はひどく降って来た。
オルテガは牛の正面からじりじりと進んで行く。もう旗はかなぐり捨てて、右手には剣を構えている。他の闘牛士《トレロス》たちは遠く離れて、アレナの真ん中には猛牛とメフィストだけが対立している。どちらも突っかかろうと睨み合っている。危機の瞬間である。満場の視線はすべてオルテガの剣の上に注がれている。牛が角を突き出して駆け寄って来る。素早く身をかわすと同時に、長い剣は(余程薄いと見えて)恐ろしくしない[#「しない」に傍点]ながら牛の頸筋に嵌まった。うまく行くと鍔もとまで通るのだが、その時は五寸ほど余っていた。それでも、牛は二三遍あがき廻った後で雨の中に横倒れに倒れた。喚声が一時に揚がった。
その時、雨は車軸を流すような勢いで降り注ぎ、天からアレナの幅ほどの滝が落ちて来るように見えた。見物人は、中には尻に敷いていた小さいクションを頭に載せたりして、皆後方の廻廊の屋根の下へ走り上った。アレナにも人影は見えなくなり、殺された大きな牛が黒い巨体を横たえているきりである。赤い血のリボンが砂の上まで一節長く伸び流れながら。
向うの入口から三頭の騾馬が六人の男に付き添われて駆け出して来て、死んだ牛を曳いて駆け去った。
その時、がら空《あ》きになったスタンドの最前列の座席(バレラス)に頑張って、土砂降りの中に濡鼠のようになってる一人の紳士と一人の婦人があった。雨のために演技が中止になりそうなので、(中止になるとその日の入場券はそれきり無効になるので)、豪雨にも拘らず座席を離れないで、演技を継続させようとする意志表示らしい。係員のような男が傍へ行って何やら話していたが、男はかぶりを振って座席を離れようともしなかった。女の方はあんまり雨がひどいのでやがて遁げ出したけれども、煙突男ではないバレラス男は最後まで頑張り通した。それがためかどうかはわからないが、やがて拡声器が第二回以下は明日午後四時半から続行すると報告した。
四
次の日も午前は少し降ったが、正午頃から霽れ上り、午後は強い夏の日がかんかん照りつけた。
昨日につづく第二回は小ベルモンテがマタドルだった。彼はエスパーニャ人としては白面の青年で、淡青色の上衣に同じ色のズボンを穿き、靴下は淡紅色で、瀟洒たるいでたちで、それに美貌が人気を集めて、よほどファンが多いようだった。
第三回のマタドルは昨日のオルテガで、例のメフィスト的な爛々たる凄い目を剥いて荒れ狂う猛牛を抱き込むようにして剣を
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