は決してそんな座席は選ばない。座席の最後の、つまり、スタンドの最上層は、屋根のある廻廊席になっていて、本来は婦人席だった。しかし、今は其処に男もいれば、またバレラスに陣取った女もある。座席はすべて石造のスタンドである。
三
四時半になると鐘《ゴング》が鳴り、演技は闘牛士《トレロス》の入場式で始まる。
アレナの向側の入口から、黒衣に白襟を付けた騎馬の役人《アルグアシル》が二人先頭に立ち、色さまざまの扮装をした人と馬の一団が此方へ進んで来る。徒歩の闘牛士《トレロス》が十人、騎馬が六人、外に飾り立てられた騾馬が三頭、その傍には白に赤の装飾ある頭巾をかぶった男が二人ずつ付き添いながら。三頭の騾馬と添付の六人は後《あと》で殺された牛を運び去る役である。
その花やかな一団はアレナを横断して、正面のテンディドスへ向いて列ぶと、其処に陣取っている闘牛の司宰者が牛檻《トリル》の鍵を馬上の役人《アルグアシル》に投げ渡す。
集団は解散し、闘牛士たちはめいめいの部署につく。雨がぽつぽつ落ちて来た。
向側の牛檻《トリル》の戸が開かれる。瞬間、一頭の大きな山のような牡牛が砂を蹴って駆け出して来る。牛がそんな速さで駆け出すのを私は見たことがなかった。殺気を含んで猛烈な勢でアレナの中央まで駆けて来ると、いきなり立ち止まって四方を見廻わす。初めから喧嘩腰で、よい敵はいないかと捜している。うまく仕込んだもので、もし牛がその精悍さを示さなかったら、見物人の反感はそれをいじめ殺そうとする者の上に集まるだろう。その証拠には、私はそういった場合を一度も見なかったが、駆け出した牛に闘志がないと見ると、見物人は騒ぎ立って、格闘を中止させる習慣があるそうだ。それは必ずしも人道主義的見地から反対するのではなく、勝負にならない勝負を見せられることに興味を持たないからだろう。人道的な神経を働かしてくよくよ思うような者は、闘牛場などには初めから入らない方がよいらしい。
ひょっと気がつくと、勇敢な牛の頸には小旗のような赤い小さいきれ[#「きれ」に傍点]がひらひらしている。どこそこの牧場《ガナデリヤ》で育ったという出身を示すデヴィザ(色じるし)である。
正面寄りの板囲いの前の其処此処に立ってる闘牛士《トレロス》の数人が牛の方へ歩み寄り、一人ずつ赤い合羽《カパ》を振ってからかいかける。牛は赤い色が癪にさわると見え、大きな角で突っかかって行く。それを巧みに外《はず》すと、また次の者が赤い合羽《カパ》を振っておびき寄せる。そうするのをテュロ(おこつり役)という。牛はテュロたちに誘惑され、角を振りながら正面のバレラスの前へ引き寄せられる。
其処にはピカドル(槍役)が馬上に槍《ブヤ》を掻い込んで待っている。ピカドルの足は重そうな脛当で保護されている。馬は左の腹を板囲いにくっつけ、右の腹を牛の攻撃に曝している。右の目が繃帯で包まれてあるから、兇暴な敵が迫って来てもわからないのである。遂にテュロたちは牛を馬の傍まで誘い寄せることに成功すると、ピカドルはいきなり槍を右手で持ち上げて、牛の頸根をねらって突く。穂尖は短いけれども、咽喉までも通るかと思われるほど深く嵌まる。血が赤いリボンのように牛の黒い脊筋から流れる。
四本の脚を踏んばって突き刺さった槍の力を受け止めていた牛は、忽ち渾身の勇を揮《ふる》ってそれを反《は》ね返し、鋭い大きな二本の角でぐさりと馬の右腹を突いた。馬はピカドルを乗せたまま脆くも板囲いの根もとに押し倒され、ピカドルは反ね飛ばされた。
キャーーーッ!
裂帛《れっぱく》の叫び声が私の耳もとで叫ばれた。見ると、弥生子は顔を両手の中に埋めている。牛が馬か人かを突き殺したと思ったのだろう。しかし、誰もそんな初心な見物人を問題にする者はなかった。六万の目は熱心に牛の一対の角の上に集まっていた。馬の右腹は野球の捕手《キャッチャ》の胸当《プロテクタ》のような厚い革で保護されてあるので、私たちは腹綿の迸り出るのを見ないですんだのであるが、一九二八年以前だったら馬は一たまりもなくその場に絶命していた筈である。その頃はピカドルもしばしば突き殺された。ピカドルは今日では鎖かたびら[#「かたびら」に傍点]みたいなものを下に着込んでるそうだ。
ところが、牛は勇猛ではあるが、愚鈍にできてるので、折角ピカドルを馬ごと突き倒しながら、第二の突きを入れる前に、駆け寄って来たテュロに赤い合羽を振られると、その方へ気を取られ、すぐその合羽の方へ突っかかって行く。それも人を突こうとするのではなく、赤いきれに突っかかって行くのである。幾ら突いても相手はふわりとして手ごたえがないので、勢力を消耗されるばかりだ。その間に、ピカドルも馬も助け起されて、もとの姿勢で板囲いの前にひかえる。
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