闘牛
野上豊一郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仕止役《マタドル》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女|闘牛士《トレロス》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きれ[#「きれ」に傍点]
−−

    一

 エスパーニャに来て闘牛を見ないで帰るのは心残りのような気がしていた。しかし見るまでは、生き物を殺すのを見て楽しむということがひどく残酷に考えられ、それに対する反感もあって、見なくともよいというような心持もあった。その反感は、私よりも弥生子の方が強く、彼女は闘牛を見たいという好奇心は全然持ってないようだった。私の方はそうではなく、見たくもあるがいやな気がしはしないかという不安で躊躇していた。
 ところが、偶然は私たちにそれを見させる機会を与えた。或る朝、私はサン・セバスティアンのヴィラ「ラ・クンブレ」の日陰の涼しいヴェランダで、デッキ・チェアに足を踏み伸ばして、読めもしない西班牙語の新聞の見出しを拾っていた。ドイツがポーランドに侵入してからは、いつどんな事が起るかわからないような気がして、どこへ行っても新聞とラディオの報道を気にする習慣になっていた。それを見ていると CORRIDAS DE TOROS という標題が目に留まった。それが闘牛のことだということぐらいは知っていた。土曜日(八月二十日)からサン・セバスティアンで始まる。仕止役《マタドル》はオルテガとベルモンテ、云々。まだいろいろ書いてあったけれども細かいことはわからなかった。
 食卓でその話が出ると、主人《あるじ》の矢野公使はエスパーニャの事なら何でも知っていて、オルテガというのは老ベルモンテと並んで当代一流の闘牛士であるが、老ベルモンテは此の間イタリアからチアノ伯が訪問した時、老躯を提げて唯一人で猛牛に立ち向い、すべての役を一人で演じて仕止めた。今度サン・セバスティアンに来るベルモンテはその息子で、若くて色男で人気者だ、ということだった。闘牛士《トレロス》はエスパーニャでは一種の国民的偶像であり、その人気と収入は大したもので(イバーニェスに拠ると、年収二十万ペセタから、三十万ペセタに上るそうだ)、へたな国務長官などの及ぶ所ではなく、演技は冬を除いて一年中行われ、本来セヴィーヤが本場で、其処で復活祭の季節に始まり、十一月まで
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